夜の満州、月の光も届かぬままに、どこまでも広がる暗雲の下を、なにか小山のような物体が蠢いていました。どこまでも続く平原の海に、それは突然現れた島のよう。
強力なサーチライトが二条、闇夜を切り裂く眼光のように地面を照らしだし、時折漏れる星の明かりにきらめくものは金属の輝き。
ぎりりぎりりと地面に杭をねじ込むような駆動音を発してそれは進み、がらりごろりと重々しく車軸の廻る響きからは、それはまったく機械仕掛けの大きな幌馬車のような姿とも見え、
しかして全体の姿は矢張り捉える所もないまま、不定型に蠢き続けるのです。
一陣の風とて吹かずとも、それはさざめき又ざわわと波打つように流れて動き、機械のようにまた生き物のようにそのものは地を這い何処かへと歩み続けていきました。
もしも誰かが目にすれば、驚き不思議に思うような光景でしたでしょう。しかし無人の野を行くその物に、気付く者とて居はしないのです。
地を行くものも空飛ぶものも、およそ生き物というものは、まるでこの怪しげなる存在の前に恐れ怯えて、その姿を隠し存在をかき消けしたかのよう。
やがて音もなく雲が流れ、月の光は真暗き地表に降り注ぎ、小山のように聳えて動く、怪物じみた影の頂上に、据え付けられたある物を、明るみのもとに照らし出しました。
幅広い背もたれに、典雅な肘掛けを備えた、それはひとつの安楽椅子でした。この異形の物体を御するかのように設えられたその座所は、矢張り異形なる主の玉座か、
夜陰に紛れてなお照り映える、艶やかな座面の様はさぞや瀟洒なつくりの逸物と見え、その上に染み付いた滲みのような人影は、まさしく是を御する者と映り
穏やかな月光の下、この怪しげなる物体を、如何なる野望の目指すところにかと、導き進んでいくのです。
しかし微かな月はすぐにまた厚い雲に覆い尽くされ、夜気の中に機械とも生き物ともつかぬざわめきだけが、しずかに漂い流れて行きました。
金属の杭を地面にねじ込むような音。
重い車軸の廻る響き。
そして密やかに、たいそう密やかに、
なにか骨や牙や、歯や爪を、強く、しかしそれでいて激しくはなく
ただ諾々と轢らせるような。
いのちのざわめきを残して。
何処かへと去っていきました。
* * *
すべての夜が、光無き闇の帳に覆い隠されているわけもなく。この同じ空の下には、雲ひとつ無い空の高みで満天の星を御した月光の、庇護の下に照らされるものたちもありました。
まるで有史以来、訪れるもの人さえ曾て無いようにも感じられる無辺の満州平野の片隅に、天然自然の奇跡を知ろし召すかのように湧きでた泉がひとつ。
その揺れる水面は蒼い夜空を映し出し、傍らの岸辺に膝をついた鋼鉄の影もまた、そのこころの揺らぎを写したかのようにさざなみと揺れて見えるのでした。
ガン・ホーの鋼鉄の身体は薄蒼く輝いたままに座し、その何処までも夜を見通す赤い目は、ただ空の果てへと向けられて、何かを求めて止まぬよう。
片膝をつき片肘を重ねて微動だにしない鉄量は、まるで一体の彫像のように夜の静寂を黙したままに居るのでした。
「ガン・ホー・・・」
清水に浸したハンケチで髪を洗っていたタケルは、水面に映るロダン彫像のような巨人の姿を見遣って心配そうに呟きました。
微動だにせぬ鉄塊の、その内側で千々と乱れるこころねに届くほどには、声も体も小さすぎると解っていても、
「昼間のこと、やっぱり、気にしているんだね・・・」
それでも言葉を継がずにはいられないのでした。強く、固く、ハンケチを絞ると共に心根も引き締まって、タケルは精一杯の笑顔で振り向き、憂いも限りも少しも見せずに言いました。
「ねえガン・ホー、知らない人にお菓子をもらっちゃあ、いけないんだよ?それはちゃんとわかってるのかなあ、君はさ」
「お菓子だって?」
赤い目がさも不思議そうに瞬きます。
「何を言っているのだかよく解らないのだが」
ちっ、ちっと舌をうち指を振って、タケルは子どもに――自分よりも小さな、幼い子どもに――噛んで含めて言い聞かせるお兄さんのように言うのでした。
「いくらそれが甘くておいしそうに見えたって、お菓子をくれる人がどんな人だかわからなければ、ハッキリ『いりません』って、ちゃんとことわらなければだめなんだ」
気のせいか、ほんの僅かな気の惑いか、ガン・ホーの目の輝きが少しだけ優しくなったように、タケルには思えたのでした。
「甘くはなかった。むしろ苦いものだったよ」
しかし繰り出された言葉は心に重石を呑んだように、暗く哀しいものでした。
「苦かったらなおさらだよ。もう、しょうがないなあ」
小さな子どもが腕を組み、頭を振って、身振り手振りで示す様は、それはちょっとJ=スイング青年を真似たような大仰な振る舞いでした。
「知らない人から、苦い物をもらって、それを平気で、なにも気にもしないで食べちゃったら大変じゃないか。病気になっても知らないよ!」
「しかし・・・『良薬口に苦し』と言うのだと、私は聞いて、知っているのだが・・・」
「苦いからって薬だなんて限らないよ。例えばね」
タケルは突然、ものすごくいやなことを思い出したかのように顔をしかめました。
「・・・いいや、この話はよそうよ・・・とにかく、あんまりくよくよしてちゃあいけないってことなのさ!」
うんうん、とひとり深々と首肯して、片眼でちょいとあおり見て、ガン・ホーの様子を確かめます。
そこに居たのは最前と少しも変わらぬ有様の“機械人間”なのですが、
そこに居るのは矢張り言葉と言葉の通じる相手、心の通い合うともがらなのです。
他の誰にも――おそらくは水晶頭脳を創り出した瀬生博士にさえも――感じ取れぬ何事か、不可視の霧のように二人を囲って漂う気の保ち様を見て取ったように、
タケルはガン・ホーの悩む心に生まれた小さな透き間へ手を伸ばし、そっと扉を開けるのです。
「だってぼくらは、そんなことをするために、ここまで来たんじゃないでしょう?くよくよ悩んでいるだけで、お父さんのもとへたどりつけると言うなら、ぼくもきっとそうするよ。
けれども、そうじゃないんだ。どんなに嫌なことやひどく苦しいことがあったって、それでも立ち止まらずに進んでいかなきゃ、どこにも行けはしないんだよ」
その言葉を聞いたガン・ホーの機械の瞳はほんの僅かに絞られ、ガン・ホーの機械の眼がほんの僅かに少年を見据えて、ガン・ホーの機械のこころの内側に、
傍目には解らぬ何かが映し出されて、ガン・ホーの機械の声音がほんの僅かに優しくなって、そうしてゆっくりと、緩やかに、ガン・ホーの言葉が生まれて来るのでした。
「私たちは・・・私は、何処へ向かっているというのだろう・・・」
「やだなあもう、ZZZ団の秘密の基地だって、前からずうっとそう言ってるじゃないか」
「いや、それは確かに『私たち』が目指す場所、目的地なのだが、そうではない、それだけではないんだ。場所・・・距離・・・行先・・・」
何かを考えあぐねるようなガン・ホーでしたが、タケルもまたその姿に相対しながら言葉を掛けることが出来ずにいました。簡単には応じられないようなことを思っているのだと、
そのように感じられ、言の端が紡がれるのをじっと待っていたのです。
目には見えないものを探し、手には掴めないものを求めるように、その視線は彷徨いその指先は伸ばされ、アキレスが亀に追いつけるほどの時が過ぎて、それからようやくガン・ホーは
惑わずに硬く、心のそこからの言葉をゆっくり抽き出して行きました。
「私たちが探していること、私たちが求めていることは・・・それはおそらく・・・欠落を埋め、領域を拡げ、存在を全うすることなのだろう・・・つまりそれは・・・完全であるということなのだ。
私が求めることはそれだ。その為に必要なことは、それは私だけでは、独りでは手に入れられない。誰かが、否、瀬生博士が必要なのだ。
何故なら私は未完成で不完全な存在であり、私をお造り下さった博士こそが、私の得られぬ『完全』を与えてくれると、そう思っているのだ」
「だから私は」
「それを願う」
「だから私は」
「人を助ける」
その言葉を、鋼の筆先で岩壁に文字を刻むように発せられた声音の全てを、ただひとり聴いていた少年が理解し得たかどうか、それは誰にも判らないことなのです。
ただひとり少年はその声に耳を傾け、そのこころときもちを知ろうと、知り得たいと、願っているのでした。
「私は今の私より、もっと良い物になりたいと思うよ。その為に教えを請うには私の事をよく知る瀬生博士に会わねばならない。
私がはじめて自分で歩き出そうと思ったそのときから、それは少しも変わらないことなのだ」
「うん、だからさ」
タケルはいっそう朗らかになって言いました。
「君のことをよく知りもしない人から言われた事なんかで困っているなんて、それはやっぱり変だよ」
そう、言ってしまった後で、ひどく頬を赤らめ何もない足下を蹴り、照れくさそうにガン・ホーを見上げました。
「知らない人からお菓子をもらっちゃいけないし、それにね――」
と、そこから先はひどく真面目になって、
「知らない人からお薬をもらうのは、多分、もっといけない事なんだよ」
そう、ガン・ホーに告げるのでした。
* * *
夜の帳が静かに降り来て、ふたりのこころがようやく安らごうとしたそのときに、ガン・ホーの赤い目は突然に鋭い眼差しを投げかけました
油断なくすぼめられるレンズの絞りは泉水の向こう側、夜空に影を連ねる段丘のうねりを見つめて、
「どうしたの!」
「静かに。」
内蔵された集音装置は人間の耳では拾えないような類の物音を、漏らすことなく聴きわけているのです。
息を殺してガン・ホーに寄り添うタケルの目にも、やがてはっきりとその姿は認められました。
薄明かりに照らされて稜線上に低く身構える、四つの足。
闇夜を貫き通して輝く、二つの目。
強靱な“マシーネン・メンシェ”を前にしてなお昂ぶる、一つの魂。
無辺の荒野を生きる夜の住人が、一抹の水を求めてやってきたのかその影は、見知らぬ先客にすこしも怯えることなく、
夜の底に熱い息吹を吐き出しながら、むしろ挑戦の響きを伴う低い唸りを、喉の底、身体の内より絞り上げるのでした。
「野犬か?群れからはぐれたのか、いや――」
ガン・ホーはなにかほかの存在を探すようにその影の向こうを見つめました。
「だめだよ、驚かせたりしちゃあ」
タケルに言われてわずかに浮かせた腰を、ゆっくりと砂地に降ろします。
「向こうだってびっくりしているんだ、ぼくらと同じぐらいにね」
「ああ、それは判るのだが・・・」
三角の耳を逆立たせ、三角の口元を大きく開き、三角の牙を剥き出して、夜の獣は浪々と吠え、その声音はどこまでも遠く遠く広がって行き、
その様を映し出した少年の瞳には、恐れるような、讃えるような、形容し難い種類の光が宿っていたのでした。
「あれはきっと・・・仲間を呼んでいるじゃないかな・・・」
ガン・ホーはゆっくりと、静かな動きで腰を浮かせてそのまま大きな手のひらを降ろし、固く閉ざされる門扉のように左右からしっかりとタケルを護ります。
「そのようだね」
「どうしよう、ぼくたちここから離れた方がいいのかな。ぼくらはなんにもするつもりはないけれど、動物にはわからないよ。言葉が、通じないんだ」
「いや、言葉は通じる相手のようだな」
ガン・ホーの機械の眼差しにははっきりと判る人間の姿形が捉えられていたのでした。
* * *
「ひとが居るっていうの?いっしょに??」
「うむ。どうやら野犬の類だと思ったのは誤解だったようだね」
「飼い主ってことなのかなあ」
おそらくは自分でも気がついていない程ごくわずか、ほんの少しだけ残念そうな面もちが、タケルの顔には浮かぶのです。
「向こうは足を速めたようだ。すぐ私たちにも気がつくだろう」
「それじゃあ、あんまり驚かしちゃいけないね」
ひょい、とタケルはガン・ホーの太い指に手を掛けて、慣れた動きでするりと登って身を乗り出して、自分の目では未だ捉えざる人影を、夜のさなかに求めて見れば。
身構えていた獣の方こそ、驚き怪しむのも当然だったかも知れません。
生まれもつかぬ巨大な鉄塊を、その姿形と大きさよりも、これまで経験の無いほど強烈な鉄と油の匂いを前にして、
自らの力量と仲間の安全とを軽々しく呑み込んでしまいそうな不安に怯えながらも、そのとき突然目の前に現れた小さな生き物の、
それはよく知る種類の弱さを嗅ぎ分ければ。
尾は剣のようにそそり立ち、四肢は弓弦のように引き絞られ、ひと声唸りを上げると矢のようにガン・ホーの元へと疾走するのでした。
「うわ!あ、あぶないっ」
日頃通い慣れたか水辺の縁の、夜目にも判る浅瀬を縫って、猛々しく駆け寄っていく一気呵成な勢いは、何も知らぬタケルやガン・ホーの目にはまるで水上を渡る奇禍のように映ります。
ガン・ホーも両の掌にタケルを乗せて、赤い目を爛々と輝かせながら立ち上がる様は、まるで太古の伝説にある巨人のよう。
恐れを知らぬ魂と、退くことの無い意志とが、まさに激突せんと共鳴する咆哮を上げたそのときに、
かすかにさやけき笛の音が、その場のすべてを縫い射止め、人と獣と機械のこころは、音色の源を求めて闇の中に目を凝らします。
星月の光はまさに満天に広がり、一管の横笛を奏でる少年の姿形が草原と水面に浮かびました。
月明かりはハレイションのようにその面影をおぼろに照らしだし、一夜の夢のように立ちつくす皆の様子はまるで一幕の舞台を見るかの如くにあって
誰が知ろう、その時まさに天の伽藍にひときわ輝いていた星の名をこそ、「天狼星」と云ったのです。
「きみは――」
と、掌の上からタケルが問えば
「――だれだ」
少年もまた、問いただすのでした。
銀色の髪を夜風になびかせて、瞳は少しも揺るがずに。
つづく