「知恵を巡らせ頭を使え 泣くも笑うも決断ひとつ」
――「アニメンタリー決断」主題歌 「決断」より
* * *
元号が大正から昭和へと替わり、忙しなかった世の中が、漸う落ち着きを取り戻したころのことです。
東京府は世田谷、成城のお屋敷街の一角を、ひとりの人物がのしのしと歩いていました。
暮れなずむ夕陽に影が伸び、ただでさえ大きな体躯はよりいっそうのまがまがしさを帯び。
丸太のように太い腕が、その肩に担ぎ上げるのは大の大人がゆうに入ってしまいそうな――まるで西洋の棺のような――箱。
静かな街路に相応しからぬ凶相をかもし出す、ところどころに擦り切れた袴に胴着。
飛ぶ鳥もこれを避け、猫子達も近寄らぬ怪しげなその人物は、人気の無い夕暮れの路地をのしのしと歩いてゆくのです。
* * *
そんな成城のお屋敷のひとつ、やけに大きな割りにはあまり賑やかしさもない、ちょっと寒々しい和風造りのお屋敷で、
萌黄色の着物をまとった小さな女の子がひとり、寂しそうにも悲しそうにも見える顔でぼんやりと座っていました。
がらんとした大広間には夕餉の支度の声も届かず、女の子はひとり寂しそうに悲しそうに、それも当然といった諦観の様子で
座卓に向かって膝をたたんでいるのです。
と、障子戸がからりと開き、わずかな物音に女の子は小さなからだをびくりと震わせました。
振り返ってみればそこには開襟シャツにズボン吊りの、勤め人のような青年が広間に入ってきたところだったのです。
「おにいさま、おどろかせないでくださいまし」
小さく抗議の声を上げた女の子の年はせいぜい七つか八つ、翻って青年の風体は二十歳を越えたかといったところで、
傍目には随分年の離れた兄妹です
「ん、どうしたんだいこんなところで」
青年は優しい様子で妹に問いかけました。丸顔の頬には少しばかり痘痕がのこり、小柄な体とあいまって愛嬌のある笑顔です。
女の子は視線を畳に落としてささやきました
「おにいさま、わたくし不安なのです。今日はなんだか朝からずうっと胸元が落ち着かなくて。
ひとりでいると、心の底から震えがわきあがってくる思いです」
「おまえは心配性だなあ。なあに大丈夫さ、今日という今日はいつものようには行かないよ。こっちは随分、鍛錬してきたんだから」
青年は妹のつややかな黒髪をぽんぽん、となでました。「鍛錬」という言葉の通りにその手は鍛え練られた証の如く、強固に造られていました。
その優しげな風貌と、その強靭な拳。ぼきぼきと指を鳴らすと青年はふふと微笑み、瞳の奥に一種乱暴な輝きを宿します。
「今日こそは一本、必ず」
「でも、でも、もしかしたら今日はお帰りにはならないかもしれません」
女の子はひしと兄に訴えかけます。
「もしや船が遅れるとか、列車が脱線するとか、ともかくなにかの事情で延着することも、あるかも知れません」
「ああ、無い無い。もしそんなことが起きたって、二本の足で歩いてくるよ。お父様はそういうお方だ。七四(ななよ)だってそれぐらいはわかるだろう」
東京警視庁勤務、山田六一(ろくいち)巡査は洋行帰りの父親を出迎える為、一日非番を頂いて待ち受けていたのです。
今日はこの家の主がアメリカ無宿武者修行の旅から戻る、まさにその日――
* * *
「むむ、」
突然、六一兄さんが辺りの気配に耳をそばだてました。
「来たなッ!」
小さい七四ちゃんには、なんのことやらわかりません。
「どうしたのですかおにいさま。いきなり血相を変えて」
「空気がざわめいている。間違いない」
虚空をにらみつけ、発止と立って外へ向かいました。
勢いよく障子戸を開くと、大声で家人に呼びかけます。
「妙(たえ)さん、妙さん!」
「はいはい」
小柄な小婆さんが、しわしわな顔を廊下に出します。
「どうやら戻られたようです。打ち身と捻挫の薬を用意してください」
その姿はまるで立ち合いに向かう武人(もののふ)の様、硬く結んだ口元と、引き締められたまなじりに、凛と決意が浮かびます。
「はいはい、六一さま、また投げとばされるのですね」
でもそのひと言で、自信もあっさりひしゃげました。
「ちぇっ、ひどいな妙さん。今回ばかりは秘策があるんですよ」
「はいはい、毎度そう仰られていますな」
二人が行ってしまうと、七四ちゃんはまたひとり、夕暮れの広間に残されました。
(空気がざわめく、とおにいさまはおっしゃっていたけれど)
小さな頭のなかで、そんな事を思います。
(そんなこと、わたくしにはぜんぜんわからない)
「でも、それでいいのです」
つい、言葉が口をついて出ました。
「おにいさまはおにいさま、わたくしはわたくし。武門のほまれも武道のこころえも、わたくしにはかんけいがありませんの」
けれども所詮はひとり言。耳を傾けてくれる相手はいません。むしろ誰もいないからこそ、自分の本当の心情が言えるのだと
幼い山田七四には、まだわからなかったのです。
* * *
天地を揺るがすような怒号とともに、山田家の邸宅が震災にあったようにグラグラと揺れました。
なにか重い――丁度人間一人分ぐらいの――ものが叩きつけられる音が、木霊のように聞こえてきます。
動転して頭を抱えた七四の耳に、遠くのほうから鬼のような笑い声が聞こえてきました。
「・・・わっはっはっはっは」
どすどすどす、と力強く床を踏みしめる音、ずるずるずる、となにかを引きずる音。
たまらず七四は座卓の下にもぐりこみ、ガタガタと震えだします。
「わたくしにはかんけいありません。わたくしは、わたくしは・・・」
呪文のように衝いて出る言の葉は、されど魔物を退けるには余りにか細く、余人の耳には届きません。
断!と開いた障子戸。座卓の下から七四の目に映ったのは、ぼろぼろに汚れた袴と、そこから伸びる鬼のような足。
「父である。今戻った」
がらがらと響く、鬼のような声。
「息災であったか、七四」
おそるおそる七四は座卓の下から這い出し、実父山田特車(とくしゃ)氏に向かいました。
当年とって八十と二年、還暦をとうに越えても眼力は天を貫き、膂力は地を圧する。ザンバラに伸び放題の蓬髪は鬼の様に見え、
丸太のような腕と丸太のような足はやはり鬼のように見え、血を分けた実の親子とはいえ七四にとってこの父親はまさしく
悪鬼羅刹の権化といえました。
「お、おかえりなさいませ、おとうさま」
七四は膝をついて頭を下げます。その傍らにどさりと、まるでひと一人入りそうな大きさの柳行李(やなごうり)が振ってきたので
内心ではブルブル震え上がったのですが。
「元気そうでなにより。しかし何故、卓の下などにおった」
山田特車氏の鬼のような手のひらが、七四の頭をゲシゲシと撫で付けます。
真っ逆か、実の父親が恐ろしくて隠れていたとは言えない七四ですから、ふるふると為すがままに答えます
「え、鉛筆が落ちたので、それを探しているところでした」
「うむ、立派な心がけであるぞ。質素倹約は褒むべきかな」
呵呵大笑の笑顔で笑うと、つられて七四の頭もブンブン振り回されます。
「うう、痛いです、痛いのですおとうさま」
「痛いというのは身体が生きている証拠である。痛みを知り、それを越えよ七四」
愛娘の嘆願も、鬼父には届きません。
一通り興が乗ると、山田特車氏はどっかり腰を下ろしました。
「もし、おとうさま。おにいさまは、ご無事で・・・」
「おお、忘れとったわ。妙さん!」
「はいはい」
「廊下にのびてる愚息に打ち身と捻挫の薬を処方してくだされ。搦め手を狙うなど百年早いわ」
すっかり人事不省に陥った六一兄さんは、七四の視界の端を、荷物のように引きずられていきます。
一瞬、悶絶した白目をのぞき込んで七四の背に寒気が走りました。
「良いか七四、よく聞くのだ」
「はい、おとうさま」
「背後から敵を襲うというのは別段武士にあるまじき事ではない。しかしながら背後から敵を襲い、返り討ちに遭うというのは武門の恥ぞ。
努々、愚兄の範を忘るるべからず」
(わたくしはおさむらいではありません)
七四は思いました。しかし父親の顔が怖かったので特に言葉には、出さなかったのですが。
「アメリカとはどのようなお国だったのですか」
「うむ、広い国であった。大きな国であった。紐育の摩天楼は窓を開いて雲海に出られるほど高く、
オクラホマの草原ではヤッホゥと声を上げると木霊が返るに三日はかかるのだ
ロッキィ・マウンテンは行けども行けども山ばかり。
ニュージャージーの大森林では森に住んでいた親切な人の案内なくしてはさすがの父も生きて出られなかったであろう。
ナイアガラの瀑布は打たれるのには丁度良い水流。何につけても広大な国よ・・・アメリカ」
「わたくし、アメリカというところはもっと楽しい国だと思っていました」
「楽しい国であったぞ。ケンタッキィではストレイト・バーボンなる美酒を三樽ほど飲んだ。いや、七四にはわからぬであろうがな」
「そう、土産である。七四よ、アメリカには『てでーべあ』なる玩具があってな」
「それは『テディ・ベア』ですねおとうさま。アメリカの子供達はみな持っているという、可愛らしいくまのぬいぐるみです」
「うむ、それである」
山田特車氏は柳行李からなにやら外套の親分のようなものを取り出します。がばりと一面に広げられたそれは
「この父が手ずから打ち倒した灰色熊の毛皮である。これで遊ぶが良いぞ、七四よ」
「ひぃっ!」
剥きだされた牙と濁ったガラス玉の目に、流石の七四もあられなく悲鳴をあげました
「太古の昔、北欧の大神オーディンに仕えた戦士達は熊の毛皮を身に纏い、熊の力を我が物としたという。良いか七四、強くなるのだ」
(こ、こんな怖いものわたくしはいりません!おとうさまひどいです、あんまりです!ななよはつよくなくてもいいのです!)
こころのなかでひとしきり叫ぶと、小さな七四は大きな熊の毛皮をズルズル引っ張って、恨めしい顔で自室に引き上げました。
衣文掛けにばさりと被せると、丁度まったく目の合う高さ。改めてまじまじと見つめると――
そのままばったり、気を失ってしまいました。
* * *
「どうしたい、七四。顔色が悪いよ」
そういう六一兄さんも、頭にグルグル包帯を巻いているのですが。
「ゆうべは怖い夢をみたのです」
腫れぼったい眼で七四は言いました。
「いずことも知れぬ深い暗い森の中で、大きな熊に追い掛けられる夢でした」
「なるほど、それで目の下に隈が残っているんだね。はっはっは、七四は面白いことを言うなあ」
「笑い事ではありません、おにいさま」
もうすっかり朝食を終えて、鉄楊枝で歯をせせっていた山田特車氏が、懐からなにやら怪しげなものを取り出します。
「これは二人に土産である。食せ」
「オヤ、珍しいものを持ってきたのですね父上」
「うむ、流石に六一は見識の深いことよの。これはホーレン草の缶詰である」
食卓の上に鎮座ましたのは「Whole Leaf Spinach」とラベルを貼った銀色の缶詰でした。毒々しいまでに鮮やかな緑の葉っぱの絵が、
見るものの食欲を減退せしめるような。
到底、人が食べ得るものとは思えず、おそるおそるにたずねる七四。
「ほうれん草はお浸しで食べるものではありませんか、おとうさま」
「うむ、本邦に於いてはの。しかしアメリカでは斯様に携帯保存に利便の効いた方法で食するのである」
缶詰を鷲掴みにするとちょいと力を込めました。それだけでもう中身の方はボトボトお皿にあふれ出します。
なにやら一種不可思議な、べとりとしたミドリ色のものは普段見慣れたほうれん草の瑞々しさとはかけはなれた姿です。
鼻をつくようなすえた臭いも、朝の食卓には相応しからぬもの。
「これは食べ物ではありません、おとうさま!」
七四にはそれが素直な反応でした。
「アメリカではこれは普遍的な食材である。滋養に富み健康に良し。父はこの目でしっかと見たぞ。
体位劣弱にして体格貧相なる水夫が、ひとたびこのホーレン草の缶詰を食せば忽ちのうちに筋骨隆々、
熊のような大男を片手で投げ飛ばす程の強靭なる肉体に変化(へんげ)した様を。
六一、七四。ホーレン草を食せ。二人とも強くなるのだ」
「こんなもの、わたくしの口には合いません。妙さん、下げてくださいっ」
振り返ろうとした七四の頭が、缶詰を素手でこじ開ける腕に押さえられました。
「なにを言うか、七四。食べ物を粗末にせいと、いつこの父が教えたか。食べ終えるまで食卓を立つ事まかりならぬぞ」
飛ぶ鳥を焼き焦がすほどの眼光が、七四のこころの奥底までも刺し貫きます。
「ううっ、わ、わかりましたおとうさま」
「良い心がけである。では父は鍛錬に出かけてくる」
念を押すようにギュウと頭を押さえると、山田特車氏は鉄楊枝をくわえたままどこかへ行ってしまいました。
後に残された兄妹は、こんもりと盛り上げられたホーレン草を見つめます。
「やれやれお父様にも困ったものだなあ。ま、仕方が無いよ」
六一兄さんは苦笑いして箸をつけ、ミドリ色の物体を口に運びました。
黙々噛みしめ、哲学者のような顔で飲み込みます。
「一体、どんなお味ですか」
「普通に食べられるよ」
「ほんとうに?」
七四は恐る恐る箸をのばして、先のところにほんの少しだけ摘み取ります。箸の先から煮出し汁が、糸を引く様が気味悪く、
息を殺して目をつむってささやかな勇気を振り絞ると、一気呵成にホーレン草を食べました。
それを、どのように説明すればよいでしょうか。口中にひろがる食感は、出涸らしのお茶の葉をかたまりで飲み込んだよう。
さりとてお茶の葉とは異なるべとつき感に、鼻孔に滲み込む異様な臭い。噛み砕こうにも口を開いていないと悪寒の逃げ出す先がありません。
ましてやそれを飲み下し、おなかの中に収めようものなら――
そういう考えが瞬時に脳内を駆け巡り、考えるよりもっと早く、山田七四の肉体は素直に反応して
咳き込みながらホーレン草を吐き出します。
「行儀が悪いぞ七四」
「ううっ、うええっぐ、ぐふ・・お、おにいさま、これは食べ物ではありません!そう、きっとこれは毒です」
「そうかあ、そんなことないけれどなあ」
六一兄さんはひょいぱく、ひょいぱくとホーレン草を食べています。
「最初はちょっと戸惑ったけれど、別段どうということもないよ」
「おにいさまはおかしいです!きっとおとうさまに投げられたり殴られたりされたからです!」
「はっはっは、だったら七四もお父様に投げられるといいよ。ちゃんと食べられるようになる」
「わたくし、そんな風になりたくありません!おにいさまに差し上げますから好きなだけ召し上がるといいです!」
山田六一は箸をおいて、真面目な顔で七四をじっと見つめました。
「七四、そこに座りなさい」
「座っています」
「こっちを向きなさい」
「なんです、おにいさま」
「お父様がなぜ事あるごとに僕等に強くなれというかわかるかい」
「わかりません、わたくしおとうさまの考えることなど一から十まで全然わかりません」
「それはね、お母様達のことがあるからだよ」
「おかあさま・・・?」
「僕の母も、七四のお母様も、体を悪くして早世されてしまった。お父様は僕等には健やかであれと願っているのだよ」
「わたくし、おかあさまのことは何も覚えていないのです」
「七四はまだほんの赤子だったからね。お義母様が亡くなられた時、僕は随分泣いたものさ」
ふたりの異母兄妹はしんみりと見つめあいました。
「だからね、七四。そういう思いを汲み取って、お父様の言いつけはちゃんと守らなければいけないよ。
僕は仕事に行かなければならないが、残さずきちんとお食べ」
* * *
結局、七四はホーレン草と向かい合って食卓に取り残されました。
(おにいさまは、あのように言ったけれども)
への字に結んだ口元のまま、きゅっと眉をよせて考え込みます。
(おとうさまは本当にわたくしたちの事を考えているのでしょうか。わたくしにはとてもそうは思えません。おとうさまはひどい人です。
それに、すこやかであれと言ってもわたくしは今のままでも十分すこやか。無理をしてつよくなることなどありません。
ホーレン草など食べなくとも大丈夫です。かといって、ここまま残しておく訳にもいかないし。一体、どうしたものでしょう)
そのとき、七四の頭の中に、電球が灯るようにすばらしい思い付きが生まれました。
「そうだわ!」
皿をとって縁側にてちてちと走りより、庭先にむかって呼びかけます
「忠次、ちゅうじやぁーい!忠次はどこ?」
その声に応じて、庭の植え込みの影ががさがさと動きました。
のっそりのっそりと姿を現したのは、小山のような白い犬。長年この山田家に飼われる愛犬「忠次」でした。
七四は素足のままに庭に駆け下ります。
「よしよし、忠次。このホーレン草をお食べ。わたくしの口には合わないけれども、滋養のあるものだそうだからお前には丁度よいはずです」
よくよく見ればこの忠次、随分と年を取ったか目元は隠れ、毛の色艶もとうに落ち、所々にくたびれた様子は隠しきれません。
七四は日ごろ元気の無いこの老犬にこそ、健やかであってほしいと願ったのです。
忠次はおぼつかない目で七四を見、効かない鼻先でホーレン草をふんふん嗅ぎました。
そのまま、ぺろりと一口にたいらげます。
「よしよし、美味しいのですね。よかったよかった、もういちどお前に元気になって、それから――」
それから、忠次はばったり倒れこみました。
「ああっ!忠次っ!どうしたのですか!」
呼べど尋ねど返事はなし。哀れ老犬忠次はホーレン草の缶詰の、あまりの不味さに即座に昇天してしまったのです。
「忠次、ちゅうじぃーっ!」
七四は亡骸を抱いて泣きくれました。
* * *
忠次の亡骸は庭の片隅にひっそりと葬られました。
長らく愛顧された犬ですから、しめやかながらお坊様の読経もあり、近隣の方々も時折お悔やみに訪れます。
お隣の後家さんなどは、わがことのように悲嘆にくれ、ハンケチを濡らしていました。
「ほんとうに、いつもいつも宅の娘ともよく遊んでくれましたものを。七四さんとご一緒にお散歩されているときなど、
なんとよく躾けられた名犬ねえと誉めそやすひとばかりでしたわ」
「うむ、鳥羽伏見の戦場(いくさば)を共にした昔日より幾年、山野に分け入り弾雨をくぐり、時には大陸の奥深くへの難行苦行。
常に傍らに控えたる忠勇無双の名犬でしたぞ。
しかし、これもまた天命。このワシが帰りくるのを待って全うするとは、真に以て忠犬の鑑かと」
山田特車氏も無辺なるかな、といった表情でさすがに気を落とした様子。
「そういえば、七四さんは?お見かけいたしませんでしたけれども」
「どうやら最初に忠次の亡骸をみつけたのはアレでしてな。余程応えたのか部屋で寝込んでおりますよ。食事も喉に通らない有様で、
不甲斐ないことですがな」
「まあ!それは大変ですこと、あなた一寸行ってきて差し上げなさい。きっと七四さんも喜ばれますわ」
「はい、お母さん。失礼致します、おじさま」
後家さんの背中に隠れるようにいた、西洋の陶磁器人形のようにかわいらしい女の子が、溌剌と答えました。山田特車氏にお辞儀すると、
そのまま元気に駆けていきます。
「おお、あの小さな子が随分と綺麗なお嬢さんになられましたな」
「いえいえそんな。とんだお転婆で困ったものです」
「ななよちゃん、ななよちゃん、起きてる?入るわよ」
すぅっと襖を開いたのは、真白いブラウスに紺のスカート、さらりとなびく黒髪は絹の糸を縒ったかの様な女の子でした。
濡れ手拭いを額に乗せて、ウンウンうめいていた七四が、ぱっちり目を開いて喜びの声を上げます
「れいかちゃん!」
それはお隣に住んでいるお友達の大道寺麗華ちゃんでした。
麗華ちゃんは天使のような可愛らしい顔に、心配そうな表情で、七四の枕元に寄り添いました。
「かわいそうに、辛いでしょう。きれいなお顔が台無しよ」
寝乱れた七四の髪を、手櫛ですうっと漉いていきます。
苦しそうだった七四の顔はとても幸せそうな笑顔になりました。
「いつかは皆遠くへ行ってしまうものなの。忠次がいなくなってわたしも悲しいし、ななよちゃんはもっともっと悲しいでしょうけれど、
あんまり根をつめるものじゃないわ。ななよちゃんがそんなだと、忠次も落ち着いて成仏できないわよ」
「忠次が・・・」
「それが天命、寿命というものよ。これからも忠次は天国で、きっとななよちゃんのことを見守っているわ」
優しい声に、七四の胸は痛むばかり。たまらず麗華の胸元に飛び込んで、堰を切ったように泣き出しました。
「そうじゃないの、れいかちゃん。忠次が死んだのは天命なんかじゃないの・・・」
「どうしたの、一体なにがあったの?みんな話してごらんなさい」
七四は涙声で訴えました。父親がもってかえったホーレン草がどれほどひどい味だったか、自分にはとても食べられなかったこと。
代わりに忠次に食べさせたこと、目の前で忠次が死んでしまったこと・・・
そもそもそんな物をもってきた父親が、一番悪いということを。
「ひどい、ひどいわおとうさまは。わたくし、忠次がかわいそうでならなくて」
母親のように耳を傾けていた麗華ですが、そのひと言で態度ががらりと変わりました。
「ばかっ!悪いのはななよちゃんじゃないの!」
思い切り七四を突き飛ばしたものですから、すってんころりんと布団の上に転がります。
「ど、どうして・・・わたくし悪くないっ。良かれと思って忠次にあげただけよ」
「なに言ってるのよ!」
麗華は七四に馬乗りになると、ビビビと頬を叩きました。たまらず七四はひぃひぃ泣き声をあげます。
「そんなの決まってるじゃない!美味しくないから食べられないって言うななよちゃんが一番いけないの。それは自分の好き嫌いのせいでしょ!
がまんできないからって無理に食べさせられた忠次が気の毒よ」
「だって、だってわたくし・・・おとうさまが怖くて」
「ななよちゃんの弱虫!」
「わたくし、つよくなんてないもの・・・」
「ばかっ!」
麗華はまた思いっきり頬を叩きます。余りの剣幕に呆然と頬を押さえる七四。
「いいこと、ななよちゃん。これからの時代女はね、強くなければ生きていけないの。弱いのは駄目なの」
「そんなこと言ったって、わたくし早々つよくなんてなれない」
「ななよちゃんが弱いままだと、いつになったってまた忠次のように誰かがひどい目にあうわ。そうなってもななよちゃんは泣いてすませるつもり?」
「だって、だって仕方が無いじゃない。わたくしにおにいさまやおとうさまのようになれと言われたって無理よ」
「ばかっ!ばかばかばかばかっ!弱虫で駄目なななよちゃんなんてわたしきらいよっ!!」
馬鹿馬鹿言いながらばかばかと拳骨をぶっつけて、大道寺麗華は部屋を飛び出しました。
山田七四は頭を抱え込んでいたので、麗華の目に涙が浮かんでいたことなど気がつく由もありません。
ただ敷布の端を口にくわえて、ぐすぐすと泣き続けました。
* * *
そんなことがあってから、二、三日が過ぎて。
七四はずっと寝込んでいました。忠次が死んでしまったことに加えてお友達の麗華ちゃんと大げんかをしたことが深く心を傷つけていたのです。
妙さんが運んでくれるお食事にも、さほど手をつけることはなく、めそめそしながら布団のなかに籠もっていました。
天井の木目がもう何度となく回り続けていると、突然廊下を走る足音が聞こえてきました。
「ななよちゃん!これよ、これを見て!」
息を切らして部屋に飛び込んできたのは麗華でした。手にはなにやら紙片を持っています。
「れ、れいかちゃん・・・」
七四はちょっとおびえて布団を被ったのですが、麗華はおかまいなしに跳ね除けました。
「ななよちゃんでも、強くなれるのよ!」
「な、なに、それ」
麗華が押し付けてくる紙切れを、こわごわ覗き込みました。それは写真に色付けをした絵葉書で、
一見すると鉄板でできた納屋のようなものが写っています。
「ご本家からいただいてきたの。これはね、『戦車』というものよ」
「せん・・・しゃ?」
絵葉書には二人には難しくて読めない漢字で「試製一号戦車」と書かれていました。
「とても厚い鉄の板で囲まれて、すごい大砲を積んでいるの。中にひとがはいって、どんな場所でも進んでいけるのよ。
そうね、お城がそのまま走り出すような感じかしら。ねえ、ななよちゃん。強そうでなくって?どんな人でも戦車にのったら百人力よ。
これならきっとななよちゃんでも強くなることができるわ」
「れいかちゃん、これ、わざわざわたくしに持ってきてくださったの?」
「そうよ、ななよちゃんに元気になってほしくって」
「れいかちゃん、やさしいのね・・・」
「もちろんよななよちゃん。女はね、優しくなければ生きていく資格が無いのよ」
ちょっと格好をつけたので、七四はぷっと吹き出しました。
「れいかちゃん、なんだか『おかあさん』みたい」
「なによう、笑うこと無いでしょう」
二人の少女は天使のような笑顔を浮かべて、戦車の絵葉書をめくりました。
突堤を越える戦車に喚声を上げ、鉄条網をなぎ倒す戦車に息を呑み、砲撃の様を思い思いに描きだし。
少女達の行く末を照らすように、雲間から日の光が差し込みました。
* * *
「そういう事があってな、オレは戦車乗りになったんだよ。いい話だろ」
「どこがですか」
<完>