第一話「1942年、シンガポール」(前編)

 


「18:45発、南西航空25便、南支方面経由大阪行にご登場の皆様、連絡艇が出発いたします。ご搭乗手続きをお急ぎ下さい。

 なお当便の寄港地はサイゴン、海南島・・・」

 

 夕闇のせまるここシンガポール、チャンギ国際空港の乗客ロビーに、出立を告げる声が響きわたりました。

この時間ともなれば、待っている人々もさほど多くはなく、何人かのまばらな人影がベンチから立ち上がり、また窓際からよりそって、ゲートに集まっ

てきます。

そんな中を、ひときわ元気な少年の声が聞こえてきました。

 

「お父さん、早く早く!ボートが行っちゃうよ!!」

 

この男の子の名前は瀬生タケル。お父さんの外国での長いお仕事が終わり、ようやくふるさとの日本へ帰るところなのです。

 

「そんなに走らなくても大丈夫、それよりも慌てて転ばないように気をつけなさい」

 

長旅に疲れたのか、それとも元気なタケルの相手をしすぎたのか

ゆっくりとした歩みでトランクを抱えながら、後ろから落ち着いた声でお父さんが呼びかけました。

 

「乗り遅れた方はいらっしゃいませんか?それでは出帆いたします」

金モールの艇長の言葉と共にダダダダ、と船外機が鼓動をはじめて、小さな連絡艇は湾内に進み出ました。

 20世紀の中葉、1942年。このシンガポールは世界の東西を結ぶ交通の要所として発展していました。多くの国からの人々がここに集い、

ここからまた数多の場所に向けて旅立って行くのです。

そんな旅路に使われるのは、やはり世界中からやってきた船や飛行機、そして――

 

「お父さん、飛行艇だよ!」

「ああ、そうだね。東南アジアでは水上機や飛行艇が旅客用に広く普及しているんだよ。これから私たちが乗る機体も、どこかに泊まっているだろう」

「どれがそうなのかなぁ・・・・ところで、ねぇお父さん、『飛行艇』って、やっぱり『飛行機』だよね?」

「それはもちろん、空を飛ぶものだからなあ」

「でも海の上をボートみたいに進んで行くでしょう?」

「それはもちろん、船だからね」

「船の仲間?それとも飛行機?どっちなの?」

「それはもちろん、おや―?」

 

ふとお父さんは遠くの方に目を凝らしました。つられてタケルもそちらを見やりました。

あざやかに塗り分けられた旅客艇の一団から少し離れて、暗い塗装の施された単発の水上機が二機、ぽつねんと駐機しています。

胴体には斧の刃の部分だけを十字に合わせたようなマークがひとつ、くっきりと記されていました。

 

「お父さん、あれはなに?」

「うん、珍しいものが来ているね。あれはドイツ海軍の水上戦闘機だよ」

「水上・・・戦闘機?」

「ドイツは航空母艦を保有していないからね、ああいったものが必要なんだ」

「ふぅん・・・」

 

小さな戦闘機はすぐに物陰に隠れて見えなくなってしまいましたが、その鋭いいでたちはタケルの心にくっきりと残り続けました。

やがて連絡艇は取り舵を切って左に曲がり、白く輝く旅客飛行艇に近づいていきました。

胴体の横には誇らしげに「南西航空」の四文字が描かれています。

 

「うわぁ、大きい飛行艇だねぇ、お父さん」

「うむ、もともとは海軍が長距離飛行用に製造したものだからね。今現在実用化されている中でも、世界有数の大きさだよ」

「これ、戦争に使われるものなの?」

「いや、これは民間仕様だね。まさしく平和の賜物さ」

 

そして、乗り込み口の横にぴたりとつけて錨を降ろし、船員達の慣れた手つきで連絡艇と飛行艇の間にてきぱきとタラップが渡されていきます。

 

「この飛行艇が、ぼくらを日本まで連れていってくれるんだね。なんだかわくわくしてきたよ」

「ふふふ、タケルは旅の間中、ずっとわくわくしてたじゃないか。十分休みもせずに乗り継ぎばかりで、疲れなかったかい」

「ううん、ちっとも。帰ったらやりたいことがいっぱいあるもの。新しい学校に行って、新しい友達をつくって、それから、それから・・・

 お母さんとのところにも行かないとね」

肩から下げたかばんをぎゅっと押さえて言いました。

「そうだなあ。お母さんとも、ずっと会っていないからね」

優しいまなざしを向けて、お父さんも応えます。

 

「短い船旅ではありましたが、ご乗船有り難うございました。御足下にご注意の上、お気をつけてお渡り下さい。それでは皆様、良い旅を!」

艇長に見送られて、連絡艇から飛行艇へと人々が渡っていきます。

飛行艇の搭乗口には黒と白を基調にしたシックなエプロンドレスをまとった女性乗務員が、乗客を迎えていました。

 

「瀬生草蔵さま、タケルさま、二名様ご搭乗でいらっしゃいますね?お席の方は二階席、21番と22番になります。 

 『おおとり号』へようこそおいでくださいました」

その女の人はにっこりとひまわりのように微笑みかけて、タケルはなぜだか、どぎまぎしてしまいました。

「あっ、は、はい!おじゃまします!!」ぺこり、とあたまを下げます。

それを見て女の人も

「まぁ、ご丁寧にどうも」と笑顔で会釈を交わします。

その笑顔がまた、タケルをどぎまぎさせてしまうのでした。

 

階段を上がって通路を進み、座席に着いてからもタケルは落ち着かずに外を見ています。

反対側の席から通路越しに、お父さんが声を掛けました。

 

「きれいなひとだったね、タケル」

「え?う、うん。ロンドンのお家にいたリリィさんみたいな服装だったんで、驚いちゃったよ。日本の飛行艇に、日本の人なのに、なんだか変だなぁ」

「あれがつまり英国風家政様式というものさ」

 

「本艇は定刻通り、まもなく離水致します。ご登場の皆様、座席に着きベルトをお締め下さい・・・」

と、先程のエプロンドレスの乗務員さんが客室入口に立って告げました。

それほど大勢ではない乗客の間を通ってベルトの不具合をなおしたり、救命胴衣の使い方を説明したり。

そうこうしている間にも、タケルはずっと窓の外を見ています。

海の水面や、空の影を眺めているように見えて、ほんとうはちがうものを見ているのでした。

でも、翼の陰に隠れて肝心の物はあまり見えません。

それが少し、タケルには残念でした。

でもやがて、準備がととのって、

バン!バンバン!バ!!バババババ・・・・

と力強い点火栓の音が聞こえて発動機達が歌い出すと、タケルはいっそう目を凝らし、窓に顔をぎゅっと近づけて、

しきりにそちらを見据えるのでした。

「お父さん、この飛行艇はどんなエンジンをつんでいるの」

お父さんは苦笑いをしながら

「それは良いからちゃんとまっすぐ座っていなさい、首を痛めるよ」とたしなめました。

まさに沈もうとする夕陽を背に受けて、おおとり号は東の空へ舞い上がりました

一路、日本へと――

 

*                                  *                              *

 

「何かご入り用のものはございますか?」

「私にはグラスワインを。タケル、なにか飲むかい?」

「ねぇ乗務員さん、飛行艇って『飛行機』なの?それとも『船』なの?どっちの仲間なの?」

 

エプロンドレスの乗務員さんは少し胸を張って、誇らしげに答えました。

「それはもちろん、飛行艇は『飛行艇』でございます。万国の大空と七つの大海を自在に行き来できる、他に類を見ない独特の発明品ですわ、

 お客様」

ちっちっ、とひとさし指をふりたてると、まるで学校の先生のようにも見えます。

「え?あっそうか!そうだよね、あははは・・・」

「そうそう、うふふ」

 

照れくさそうに笑ったタケルにつられて、乗務員さんも口元に手を当て、ころころと笑います。

近くの席のお客さんも、何人かがくすくすと笑い、通路の反対側ではお父さんが、やっぱりにこにこ笑っていました。

 

*                                  *                               *  

 

やがて、海の上にも夜が訪れます。

お父さんも、他のお客さんも皆、毛布を受け取り座席を倒してすやすやと眠っているのですが

この客室でただひとりタケルだけは、目を覚ましたまま窓の外をぼんやりと眺めていました。

「どうしたの、眠れないの?」

見まわりに来た乗務員さんが他の人を起こさぬように小声で訊ねます。

「エンジンの音が気に障るなら、耳あてを持ってきてあげましょうか?」

「ううん、そうじゃないんだ、エンジンの音は大好きだよ」

小さな声で、タケルも答えます。

「ずいぶん高いところまで、上がってしまったでしょう?窓からは海も見えないし、翼があるから上の方もあまり見えなくて。

 せっかくめずらしいところに来ているのに、あんまり楽しくないなぁ、って思ってしまって」

「そうね、飛行艇は上翼式だし、この機体は窓が小さいから本当はあまり旅客艇向きじゃないのよね。うーん」

と、少し考え込んで

「よし、特別に面白いものを見せてあげるわ、本当は夜間飛行中は立入禁止なんだけれども」

なにやら曰くありげにささやきました。

「ほら、こっちへいらっしゃい、他の人を起こさないように、静かにね」

と、タケルを客席の後ろの方へと誘います。

 

彼女がちょっと背伸びをして、天井の辺りをごそごそと動かすと、ぱたん、という音と共にまるで魔法のように折り畳み式の梯子が降りてきました。

「ほら、ここをのぼってごらんなさい、きっと面白いわよ」

「?、旅客飛行艇に天井裏なんてあったんだ?」

「いいからいいから。あっそうそう、どんなに驚いても大声を出さないでね。君も私も、艇長から大目玉をもらっちゃうわ」

「う、うん・・・」

神妙な顔つきで梯子を登り、タケルはそろりそろりと天井の向こう側へ頭を出しました。

 

「うわ!

  ぁっ、と・・・・・!!」

あやうく飛び出しそうになった歓声を抑えて、タケルは辺りを見回しました。天井の向こう側はアクリルのドームでできた展望座席になっていて、

前を見れば主翼の向こうの操縦席が、後ろを向けばオレンジ色の尾翼が、そしてまわりじゅう一面に、広い広い夜空が見渡せたのです。

「どう?びっくりした?」

下から乗務員さんがたずねてきました。

「すごいや、うわぁ、エンジンもちゃんと見えるよ」

排気管が、赤々と輝いています。

「昼間飛行の時の展望用にここだけは残していたのよね」

「座席に座ってもいいですか?」

「もちろんごゆっくりどうぞ、お客様。モーターを点ければ足下のペダルで座席を回せるのだけれども、それだけはちょっと今は。うるさくなるから」

「これだけでもう、十分だよ・・・」

見たこともない星座が、天の暗幕を飾ります。タケルは時の経つのも忘れて、じっと空を見続けていました。

 

やがて、

「あ、流れ星!」

小さく声をあげました。階下の空席でうとうとしていた乗務員さんがふっと面を上げます。

「あら、願い事はちゃんと言えた?」

「ううん、言えなかったよ。また、見えないかなぁ・・・。あっ!また見えた。今度は大きいや。えっと、えっと、『無事に日本に着けますように』」

「流星群でも来ているのかしらね」

「本当に、はっきり見えたよ・・・二番目のなんかまるで、火の玉みたいにくっきりと」

「ふぅん、ともかく、良かったわね」

 

その時、タケルはもっとびっくりするものを見つけました。

「ねぇ乗務員さん」

「ゆき子でいいわ、『速水ゆき子』っていうのが、わたしの名前よ、タケルくん」

「じゃ、じゃあゆき子さん、この辺りの夜空って、月が二つも三つもあるものなの?」

「はい?」とキョトンとして、

「そんなわけないでしょう、いくらなんでも。今夜の満月が風防に映り込んでるんじゃなくて?」

「でも、後ろの方からこっちに近づいてくるよ、二つ並んで、だんだん大きくなって・・・」

「なんですって?」

さすがにゆき子さんも梯子を登って展望座席に上がってきました。

いくらタケルがまだ小さいとはいえ、この座席は二人が並ぶには少し狭かったのですが。

 

「ほら、あそこ。さっきはゴルフのボールぐらいだったんだけど、いまはもうクリスマスのプディングぐらいに」

ゆき子さんもじいっと目を凝らして、二つ並んだその光を見つめます。

「・・・あ!あれは、まさか!!」

顔色がさっ!と変わります。

「タケルくん、すぐに自分の席に戻りなさい。それから、お父様を起こしてさしあげて」

有無を言わせず、きっぱりと告げました。

「う、うん、わかったよ」

タケルはあわてて自分の座席に戻り、お父さんの体を揺すりました。

「お父さん、起きて、起きてよ」

「な・・・、どうしたんだい、タケル!?」

「それがぼくにも、よくわからないんだけど」

 

「お休み中のところ大変もうしわけありません!」

突然、機内にゆき子さんの声が響きわたりました。

「皆様、どうかご自分の座席を起こし、シートベルトをお締め下さい!

 本艇は只今より・・・乱気流に巻き込まれます。だから、早く!!」

うとうとしている乗客を揺り起こしながら、ゆき子さんは通路を通り抜け、操縦席の方へと向かいます。

かすかに、

「スリーゼット団よ、逃げて!」

という叫び声が、カーテン越しに聞こえてきました。

 

「ZZZ(スリーゼット)団だって!?」

客室の中がざわめきました、ここに居合わせた乗客は誰でも、その名を聞いて顔を見合わせます。

イタリア人の若い夫婦も、華僑の実業家も、大柄なドイツ人の老紳士も、ベレー帽をかぶったフランス人も

背高のっぽのイギリス人と、ちょび髭のベルギー人の二人連れもみながそろって。

およそ現代の世界に生きる人々で、その名を知らぬものはおりません。

 

「まずいことになったな・・・」

お父さんも、窓の外を見やってつぶやきました。

「なに?一体全体どうしたの??」

ただ、まだ小さなタケルだけには、なにがおこったのかわかりませんでした。

 

ばさり、といきおいよくカーテンを開いて、ゆき子さんが客室に戻ってきました。両手には大きな木箱を、重そうに抱えています。

「大丈夫です、皆様どうかおちついてください」

と気丈に声を掛けていますが、その顔には辛そうな表情が浮かんでいます。

突然、ぐらりと機体が揺れて

「ああっ!」

と、ゆき子さんは木箱を取り落としました。

ばたん、と木箱のふたが開いて、中に入っていた16ミリフィルムの容器みたいな金属缶と、何本かの鉄のパイプと、

そこに据え付けるための軽機関銃が床の上に飛び出しました。

ざわめいていた乗客もさすがにそれを見て、いっせいにしぃんと押し黙りました。

お父さんは自分のベルトを外して、

「君、大丈夫かね!」

と近づきました。

「博士、どうかお席にお戻り下さい。ここは私がお守りいたします」

「しかし、そうは言っても・・・」

その時突然、客席の後ろの方から

「お嬢さん、わたしでよろしければお力添えになりますよ」

と、声が聞こえました。

 

皆が一斉に振り返ると、いちばん後ろの座席から、温厚そうな中年の男の人が立ち上がったところでした。

「わたしは以前陸軍に従軍していた経験があります。その型の機関銃ならば、扱えますよ」

どこか朴訥で、あか抜けない背広姿でしたが、言葉には重みがあります。

「お客様・・・」

「さあ、どうかお嬢さんは機内の面倒を見ていて下さい、銃座はわたしが引き受けますよ」

言いながらも手慣れた様子で部品を集めていきます。

そして、天井の梯子にとりつき、素早く登ってしまいました。

「お待ち下さい!危険ですわ!」

ゆき子さんの制止も聞く耳持ちません。ただ、ひょっこり顔を出して

「誰か、チューイン・ガムをもっている人はいないかな?一枚わけてほしいんだが」

と、えらく場違いなことを訊ねました。

「あ・・・はい、僕、もってますけれど」

手を挙げてタケルが答えました。

「上等上等!お嬢さん、その子から一枚もらってくれ給え!」

「は、はあ・・・」

気おされたのか、ゆき子さんも従います。

カバンから出てきたガムを受け取るとその男の人は

「クランベリーか、おじさんも大好物だよ、君、ありがとう!」

ぐっと力強く親指をあげて、アメリカ人らしい不敵な笑みを、ニヤリと浮かべました。

 

窓を一枚取り外し、パイプを組んで銃架を組立て、機関銃を据え付けると展望座席はあっというまに背面銃塔に早変わりです。

円形弾倉を機銃にとりつけ、シートベルトを締め、ペダルを使って動力の伝達を確かめると男の人は伝声管に向かって話しかけました。

「こちらは偶然乗り合わせた義勇ライフル兵だ。キャプテン、ひとつよろしく頼む」

「話は速水さんから伺いました。ご助力に感謝します、ミスタ・・・」

「ヨークだ、『ヨーク軍曹』と呼んでくれ給え」

「了解、ヨーク軍曹!」

「とはいえ、ルイスの一丁ではあまりたいした力添えは期待できないかな。せめてブローニングがほしいところだね」

「申し訳ございません、軍曹」

「なあに、追ってくるのは例の『国際戦争協議会』の連中なんだろう?<悪党ニ屈スルベシ>なんて修正条項は

 合衆国憲法のどこを捜してものっていないよ。やるだけのことはしてみるさ」

「我が南西航空の社訓にもそのようなことは一切記載されておりません、よし、一泡吹かせてやりましょう」

 

そういっている間にも、あやしい光はぐんぐんと近づいてきます。客室の窓からも、それが巨大な飛行機械の機首に据え付けられた

ふたつのサーチライトだとはっきり判別できました。

 

「キャプテン、そちらからも確認できるかな?敵もどうやら飛行艇のようだね」

「『直チニ着水セヨ』との信号を打っています」

「ふむ、いきなり撃墜する気はないという訳か。ならば、ここはアジア一流の戦術に従って」

「ああ、三十六計、」

「「逃ぐるに如かず」」

ふたつの声が重なって、自然と笑みがこぼれました。

「海面高度まで機体を下げます。低空機動に持ち込めばあるいは・・・」

「撃ち上げになってしまうのは仕方がないな。まぁなんとかしてみよう」

片手では銀紙を破りガムを噛んで、もう片方でがっきとレバーを引きしぼり、薬室の中に初弾を送り込みます。

「よし、行きますよ!」

 

大きくバンクを切って、おおとり号は夜の大海原へと滑り落ちていきました。

 

つづく

 


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