第二話 「マシーネン・メンシェ」(前編)

 


「タケル君、そっちに行ってもいいかしら・・・」

 足下、おおとり号の機内から、ゆき子さんが呼びかけます。激しかったスコールも今はもう止み、何事もなかったかのような夜空にはただ星々が

またたいていました。

「下はもう大丈夫。やっと通信機を直していま連絡を取ったところよ。すぐに救援がやってくるわ」

 ぎし、と梯子がきしんで砕けたドームの中に二人は並びました。

「おおとり号を、ずっと捜していたんですって。・・・撃ち落とされた水上機の飛行士が、最後まで私たちの危険を、打電していて

 みんなが一生懸命がんばっていたのに、私はなんにもできなかった

 あなたのお父様を無事日本までお連れすることが、私の任務だったのに・・・なんにも、できなかった」 
 

凍えたように腕を組んで、すこし曇った目を向けて

「ごめんなさい、タケル君。なにもかも私の責任よ」

そう、呟きました―。

「ねえ、ゆき子さん」

星空を見あげながら、タケルは答えました

「ゆき子さんのせいなんかじゃないよ、あんなに頑張ってたでしょう・・・ピストルをあのへんてこりんな仮面に突きつけて、

 とってもかっこよかったよ―

 ほら、もうじき夜が明けるよ。『朝になったら、新しいことを考えよう』って、困ったときにお父さんがよく言ってたっけ。

 だから、だから――朝になったら、新しいことを考えようよ」

そう言って、すこしだけ笑顔を見せ

「それにね、ずっとここにいたからよく見えたんだ。あの黒い飛行艇が飛んでいった方向が。

 スコールはひどく降ったけれど、それでもちゃんと、わかったよ」

指を差して示すその空は、わずかに藤色に変わりはじめていました

 

*                        *                          *

 

「――おおとり号を沈めるですって!?」

 澄み渡った青空の下で大声が響きわたります。

救助に駆けつけた軍艦の甲板上で、おおとり号のまだ年若い副長が甲板士官の胸ぐらをつかむような勢いで詰め寄りました。

「本艦の装備ではこれほど大きな飛行艇を積載することも曳航することもできません。残念ではありますが――」

 周りでは乗り移った乗客達が心配そうに見守っています。

タケルもカバンを小脇に抱えて、人の輪の中にたたずんでいました。

「おおとり号は就役間もない新鋭機です、まだ国際航路も数えるほどしか飛んでいない。それを、それを何故!」

 今にも殴りかかりそうな副長の、肩口を押さえて

「もういい、止めたまえ」

 と、機長が静かに諭しました。

そして厳しく見つめて、

「副長、飛行前点検。機体状況、目視!」

副長は力強い言葉に気圧されながら、ゆっくりと辛いまなざしをおおとり号に送り

「機体中央・・・背部破損、発動機、一番から四番まで全損・・・翼桁にも被害の可能性、大」

「この状態からの復旧、離水の可能性は?」

「・・・ありません」

「では、仕方があるまい。ここは航路上だ。このままおおとり号を海流に乗せてしまって良いものかね?

 いつ、どこで、誰と衝突事故を起こしてしまうかも知れない。

 我々旅客飛行士は常に、すべての旅とあらゆる旅行者の安全を守る義務と責任があるのだから」

「しかし、しかし・・・なぁ」

 悲しそうに波間に漂う飛行艇を見やって、がくりと肩を落としました。

「もっと色々なところに行って、様々な場所を見せたかったのに。沢山の人達を、運ばせてあげたかったのになぁ――」

 機長も寂しげな表情を浮かべましたが、引き締めた顔を甲板士官に向けました。

「どうかなるべく、しめやかに執り行っていただきたい。出来るだけ穏便な形で。砲撃で沈めるようなことはせずに」

「無論、そのようなことは致しません。これほど美しい飛行艇に砲弾を撃ち込むなど・・・巡洋艦『デ・ロイテル』乗員一同、名誉に掛けましても」

 

 大勢の人の見守る中でゆっくりと艦は動きだし、波間に見えるおおとり号から離れていきます。

十分に遠ざかったところで突然小さな煙が立ち上がり、音は後から聞こえてきました。

誰かが声にならない嗚咽を上げ、タケルも手すりをぐっと握りしめておおとり号の姿を見つめています。

「きみ、タケル君といったね―」

 頭の上から声が聞こえて、見上げればヨーク氏が怪我をした右腕を三角巾に釣って傍らに立っていたのでした

「すまないが、私の手を支えてくれないかな?君の背の高さがちょうど良いので、ね」

「え?は、はい!・・・?」

 ヨーク氏が三角巾から腕を抜きだしたので、タケルはすこしあわてて手を伸ばしました

「怪我をしてんるだから、そんなことしたらいけないですよ」

「うむ。でもね君、こういうことは右腕でやるのが流儀なのだよ」

 そう言って凛と背を伸ばし、タケルが支える右肘をすっと曲げて、綺麗に敬礼の姿勢をとりました。

青い空の下で、碧い海の波間のおおとり号はだんだんと小さくなり、

 

空と海のあいだを、少しだけやさしい風が吹いて

 

 そうしてふっ、と見えなくなりました。

その姿はもう二度と見えませんでした 

三々五々、ハンカチで目もとを拭ったり肩を支え合いながら人々が別れて行く中、

「タケル君、タケル君――」

と呼ぶ声がしました。先刻からどこかへ行っていたゆき子さんの声です。

ボネットをはずし、髪をおろしながらも南西航空の客室乗務員のエプロンドレスの制服を着たままの姿です。

「あ、はい!ここです」

甲板の手すりにもたれていたタケルは手を振って答えました

「よかった・・・こっちにいらっしゃい。艦長さんにお願いしてあなたを連れていってもらえることになったわ」

「連れていってもらえるって、日本へ?」

「ええ、もちろん。私と一緒に、この艦の偵察機に乗せてもらうのよ」

「それは、それはうれしいけれど・・・どうしてぼくをのせてくれるの?ゆき子さんはお仕事で行かれるのでしょう?」

「心配しないで。あなたを連れていくことも、私の任務なのよ。荷物はまとまっているわよね」
 

「でも、でもぼくだけそんな・・・ことを・・・してもらってもいいの?

 ぼくとお父さんが乗っていたから、ぼくたちのせいで、おおとり号はこわされてしまったのに!」

「タケル君、あなた・・・そんなことを、考えていたの・・・」

ゆき子さんはひざをついてタケルと目を合わせ、頬に手を伸ばして言いました

「あの一団が、お父様をさらおうと追いかけてきたことは本当よ。だからと言ってあなたや、あなたのお父様が悪いなんてことはないわ。

 どうして、ひどい目にあわされたのに自分たちが悪いなんて思うの?あなたは何か悪いことをしたの?」

「ぼくたちが乗っていなければ、あんなことにはならなかったんでしょう」

「でもね、あなた達がどのような方法で旅程を選んでも、きっとどこかで襲われていたはずよ。悪いことを起こさないためには、どこにも行かずに

 閉じこもっていればいいけれど、それじゃあ悪い人たちの言いなりになっていることと少しも変わらないわ。
 
 お父様、瀬生博士はそれ以上誰にも危害が加えられないように自分で囚われることを選んだの。皆、博士のおかげで助かったのよ

 あなたや、乗客、乗員のみんなや――私も」

ゆき子さんは目を伏せ

「あなたを無事に連れていくように、瀬生博士にも頼まれたの。それに、ね」

 

「それに?――うひゃっ!」

と、問いかけたときにタケルの頭にずいっ、と大きな手が乗せられました

「こら坊主、女性から誘ってきているのに断るなんて法は世界中どこの国にもないぞ!」

無事な方の片腕で、ヨーク氏がごしゃごしゃと撫でつけているのです。

「ヨーク軍曹!お怪我はよろしいんですか?」

「いやぁ、ただのかすり傷ですからね。それにお嬢さん、もう『軍曹』じゃありませんよ。

 ただのミスタ・ヨークです。なにせあんなにデッカイ的が飛んでいたのに撃ちもらしてしまいましたからね・・・」

ちょっとだけ、口惜しそうに言いました

「いえ、そんなことはないですわ・・・ベストを尽くして下さったのでしょう。貴方も、機長も、みんな全力で頑張ったのですから」

「そういうことさ、タケル君。誰も彼も皆自分の出来る限りのことはやったんだ。その結果が上手くいかなかったとしても

 ベストを尽くしたことを責めたりはしないものさ」

「ベストを・・・尽くす?」

タケルはヨーク氏の目を見上げました。

「そうだよ、君がくれたチューイン・ガムが随分役に立ってくれたよ。なのにまだ、お礼をしていなかったね。

 うーん、そうだ、これを持っているといいよ」

と、ヨーク氏は背広の内ポケットから四角いバッジを取り出しました。

青い横長の長方形に白い星が5個刺繍されたピンバッジです。

「これは・・・?」

「私が持ち歩いてる、旅のお守りさ。君に差し上げよう。このさき、無事に旅が出来ますように」

「あ、ありがとうございます、ヨークさん」

タケルはぺこり、と頭を下げました。

「じゃあタケル君、そろそろ行きましょうか」

「ゆき子さん、ちょっと待っていて。機長さんたちに、ひとことごあいさつしてきます」

元気そうに、甲板を走って行きました。

「随分とたくましい子供さんですな」

タケルを目で追いながら、ヨーク氏が言いました

「そうですね、目の前であんな事が起きたのに・・・辛くて、悲しいでしょうに」

 

 機長たちに一礼し、頭や肩口をぽん、と一押しされてにっこり笑って

そうしてタケルはゆき子さんと一緒に水上機の後部座席に乗り込んで

再び、飛び立ちました。

*                         *                               *
 

 そのあと何度か飛行機や船を乗り継いで、タケルはようやくふるさとの日本に帰ってきました。

本当なら、お父さんと一緒にやることがいっぱいあったのですが、今はとあるお寺の縁側で、夕焼けの空をながめています。
 

「しばらくの間、ここにいて頂戴。いくつか用事を済ませたら、タケル君、あなたに大事なご用があるから待っていてね」
 

 そう言ったゆき子さんと別れてから一週間ほどはたった頃でしょうか、竹林の上を流れる風にも、ヒグラシの声を聞くのにも退屈してきた頃。

静かな寺町には不釣り合いな、大きな自動車が門前に着けられ、タケルを迎えに来たのです。

それは、ロンドン市内を走っているような黒塗りのセダンのタクシーでした。

「お客様、お荷物はどちらに?」

「ぼくがもってるのは、カバンがひとつだけです」

旅の間ずっと持ってきた小さな肩下げのカバンを大事そうに抱えて、ひょこりと大きなドアをくぐりました。

広い車内には、他に誰も乗っていません。

「あれ?ぼくひとりだけなの?」

「はい、あなたをお迎えにあがるよう、申しつけられたのですよ」

折り目正しく、運転手が応じます。

「あの・・・運転手さん」

「何でしょうか?」

「前に乗っても、いい?」

折り目が優しく破れました。
 

助手席の窓から、流れる町並みを見ていると、タケルは何故だか寂しく思えてきました

町を行く人たちはみな楽しそうで、どこにも暗い陰などありません。

ステッキ片手の紳士も、前掛けをつけた店屋の人たちも、分厚い本を抱えた学生さんも、それに

両手をつないだ親子連れも

どうしても、自分だけがとりのこされたような気分になってしまって、カバンをすっと抱きしめるのです。

そして、大切なことを聞きそびれていたと、気づきました

「そうだ、ぼく、どこへ行くのですか?ぜんぜん知らないや・・・」

「おや、ご存じなかったのですか」

運転手さんは、少し驚いたようでした。

「それは、失礼致しました。いま向かっているのは、京都大学第三機械工学研究所ですよ」

夜の道を、車が走って行きます。

 

 やがて、大きな鉄門の前でタクシーは止まりました。

門柱には小さな電灯がともって、その光の下で

お医者様のような白衣に身を包んで、小さくぽつんとゆき子さんがタケルを待っていたのです。

「いらっしゃい、タケル君。ここがお父様とあなたの、目的地よ」

小さく手を振って、小さく微笑みました。

「いろいろと時間がかかってしまって、ごめんなさい。でも、やっと今日準備が出来たの。さあ、どうぞ中へ」

通用門をくぐり抜けると、そこは運動場のような広場です。

「少し、歩くわ」

何台かの自動車ととても大きなトラックを横目に、二人は並んで歩きはじめました。

「タクシーの運転手さんがここは、きかいなんとか研究所だっていってたけど、なにをするところなの?」

「第三機械工学研究所、そうねえ、新しい色々な機械を研究したり組み立てたりするところよ。あなたのお父様が英国で研究していた成果を

 ここで作られているあるものに取り付ける手はずだったのよ。でも――」

「でも、お父さんは・・・」

タケルは遠い夜空を見上げました。

「ねぇ、ゆき子さん、お父さんをさらっていったあの、『スリーゼット団』っていったいぜんたい、どんなやつらなの?

 なんでお父さんをさらっていったりしたの?どうして・・・」

こころの中に閉じこめていた疑問が、水のようにこぼれ落ちます

 

「どうしてぼくたちは、こんな目にあわなければいけないの?日本に帰ったら、新しい学校に行って、新しい友だちをつくって

 お母さんのところにも行こうって言ってたのに、なんで、なんでこんなことになっちゃったんだろう・・・」

すっ、とタケルの肩に手が伸ばされました。

「そうね、あなた達御家族が、こんな目に遭って良いはずがないわ。誰だってそうよ。訳も分からず、理不尽なことに巻き込まれて――

 タケル君、『世界大戦』という言葉を聞いたことがあるかしら」

「えっ?・・・学校で、歴史の時間に習ったよ。たしか、えーと」

突然学校の先生のようなことを言われて、タケルはちょっと困った顔をしました。

 

「1914年というからもう20年以上昔のことなのだけれど、サラエボという町で撃たれたわずか一発の銃弾が、大きく世界を動かしたことがあるの」

足を止め、タケルの顔を真っ直ぐ見つめてゆき子さんは話し始めました。

「それは小さな銃声だったけれど、大きな火薬庫に火をつけたように、そのことをきっかけにして世界中の様々な国が戦争を始めたわ。

 この戦争は5年も続いて、その間に大勢の人達が、軍人だけじゃなくてもっと大勢の人達が亡くなってしまったの」

「あっ、聞いたことあるよ!誰か先生が言ってたんだ。ロンドンにまで飛行船や飛行機が飛んできて、夜、爆弾を落としていったんだって」

「そうね、直接戦闘とは関係のない都市を攻撃したり、ただの客船を撃沈したり、そんなことを繰り返していたのよ。

 北海から黒海まで長々と塹壕を掘って、どろの中に閉じこめられて・・・

 歴史上で、同時期にこれほど広い範囲でひとつの戦争が行われたことはないわ。だから、誰ともなく言い出したのよ

 “WORLD WAR”、つまり『世界大戦』と、ね」

「・・・ゆき子さん、ぼくずっと不思議に思ってきたんだけれど」

「なあに、タケル君?」

 

「どうして、世界のいろんな国の人たちは、戦争を始めようなんて思ったの?ぼくは友だちやおとなりに住んでた人たちとケンカをするのも

 いやだったのに、どうして世界中の人たちは戦争なんて、やりたかったんだろうなぁって、ずっと、不思議で」

 

 しばらくの間、ゆき子さんは黙ってしまいました。返事はゆっくりと重く、まるで自分に言い聞かせるかのように

「そうね、あなたにそのことを簡単な言葉で説明できたら、とても良いのでしょうけれど・・・今、大勢の学者さんや政治家の人達が

 真剣に、本当に真剣にそのことについて考えているわ。様々な人が、様々な答をだして、それでは説明できないことが多すぎて

 またいろんな人が、別の答を出して、答えることはどんどん難しくなっていくの。何が、本当は正しいのか・・・誰にでもわかる言葉で、

 ちゃんと説明できれば、その時こそもしかしたら・・・

 でも、ごめんなさい、タケル君。今はまだあなたの言葉に応えることは、できないのよ」

「ううん、ぼくの方こそ変なこと聞いちゃって・・・学校の先生もむずかしい顔をしちゃって、やっぱりおかしなことだったのかなあ」

 タケルはちょっと照れくさそうな顔をしました。でも、ゆき子さんは真剣な面持ちのままに

「そんなことないわ、答えられない方が本当はおかしなことのはずよ。わたしもあなたと同じように、その答を知りたいと思うわ」

 と、言いました。

 

「それでね、結局世界大戦は1919年にやっと終わったの。勝った方も負けた方も、どちらが勝ったのかわからないくらいに、

 とても疲れて、傷ついて・・・。そしてもうこんな戦争が決して起こらないように、ふたつのことが生まれたのよ。

 ひとつは『国際連盟』。世界中の国から、その国の代表の人たちがひとつところに集まって、色々な問題を皆で話し合って解決しようという組織よ。

 スイスという、世界のどこの同盟にも属さずに中立の立場を保ち続けている国の、ジュネーブという街に本部が置かれているわ。

 そして、その『国際連盟』でね、あるひとつのとても大切な約束が決められたのよ。タケル君。あなたいま、いくつだったかしら?」

「えっ?このあいだ10さいになったばかりだけど?」

「そうなの?それじゃあ私がちょうど今のあなたと同い年の時なのね・・・『不戦条約』が締結されたのは。

 “国際紛争の解決は、武力によらない”。もっと簡単に言うと“もう戦争はしない”ってことをね、世界中で決めたのよ」

 夜空のすこし上の方を見上げて目を閉じ、そのまま話し続けます。

「今でもよく憶えているわ。ラジオのニュースの人が『これでもう、世界から戦争は永遠に無くなるのです』って、泣きながらしゃべっているのに

 家じゅうみんなで笑いあって、私はお兄ちゃんと踊って――」

目を開き、前を見ながら

「でも結局、戦争は無くなりはしなかったのよ。やっぱり、色々な理由や事情があって多くの国でさまざまな問題が持ち上がって、

 戦争が起こりそうになって、その度に国際連盟はそれを止めようとして、実際何度も止めてきたわ。

 でも、その影で、まるで国際連盟に反対するかのように、世界中で戦争を起こそうとする集団が、いつのまにか生まれていたのよ。

 どこの国の生まれか、名前も知らない謎の人物に率いられて・・・銀の仮面で顔を覆った『総統』と呼ばれる、謎の男に。

 その目的から『国際戦争協議会』と呼ばれ、またその集団が胸につけているアルファベットのバッジから」

「スリー、ゼット団・・・?」

「そう、そういう名前でも呼ばれているわ。小さなもめ事やささやかな争いの中に入って、どんどん大きくしていったり、

 本当はいりもしないはずの武器をさも必要であるかのように売りつけたり、あの手この手で、戦争を始めようとしているの。

 世の中には、戦争をやりたくて仕方がない人がやっぱりいるのよ。

 それがね、タケル君。 あなたの質問に対するほんのわずかな、とても小さな答なのよ。これだけじゃあ、何の応えにもならないのだけれど」

 

*                         *                               *

 

「そうだったんだ・・・でもなぜそんなやつらが、お父さんをさらっていったんだろう?」

「それは、きっとZZZ団がまた戦争を起こそうと思っているからよ、スペインの時みたいに」

「スペイン?スペインってあの闘牛士のいるスペイン?」

「そう、ほんの数年前に国内で戦争があって・・・もう少しで本当に大きな戦争が引き起こされるところだったのよ。世界中のいろんな人達が

 それを止めさせようとしてスペインに行って、命を落としてしまった人もいて・・・でもなんとか拡大させることなく内戦を終わらせることができたの」

「スペイン、スペイン・・・そうだ!」

タケルははっと顔を上げました。

「どこかで聞いたことがあると思った!ぼく、お父さんとふたりで美術館にいったんだ。スペインの絵や、写真の展覧会があって、その時に・・・

 会場の奥にとっても大きくて黒い絵が置いてあったんだ。隣に貯金箱みたいな小さな箱が置いてあって

 『ウェスカやテルエルやゲルニカや、その他多くの土地の人々に』って書いてあったっけ。それでお父さんがコインを入れていて、

 ぼくもおこずかいを少し、中に入れたんだ。お家のない人や、冬なのに毛布もない人たちが、まだいっぱいいるって・・・かわいそうだなぁって」

「それは、とても良いことなのよ。人のために何かをしようと思うことは、とても自然なことよ・・・」

「でもね、ふふ・・・おかしな絵だったよ。ひとやウマやウシが描いてあるんだけど、どれもめちゃくちゃで、色だって黒と灰色ばっかりで

 こんな絵ならぼくにも描けそうだねっていったらお父さんが『おまえには無理だよ』って。少しこわい顔で」

「そうねえ、その点に関しては、私もお父様の意見に賛成ね」

にっこり笑い、ちょっと指を振り上げて、楽しそうな小言みたいな言い方でした。

「あの絵を描いた画家は、とても辛くて、苦しい思いをしたに違いないわ。そういう気持ちが、あの絵の滅茶苦茶な人や馬や牛の形、

 色のない世界を生み出しのだと、わたしは思うの。だからそう、あなたにあんな絵は描けない。でもそのほうがいいのよ、きっとね」

「そうかなぁ?よく、わからないや・・・でもね、その大きな絵よりも、もっとよく憶えているものがあるんだ」

「あら、パブロ・ピカソよりもあなたの印象に残るなんてすごい画家ねえ。どんな絵だったの?」

「ううん、絵じゃなくて小さな写真だよ。地面の、ちょっとへこんだところに兵隊さんが一人いて・・・一緒にぼくと同じぐらいの子どもが何人かいて

 子どもはみんなこっちをじいっと見つめてるのに、兵隊さんだけは鉄砲をもって遠くの方を見てるんだけど

 なんだか、兵隊さんのほうがこわがっているみたいで・・・すごく、すごくいやなことをしているのかなぁって。戦争っていやだなって思って」

突然、ゆき子さんはぴたりと足を止めました。

 

「あの写真を、見たのね・・・」

 

 声色が変わったのでタケルは見上げてみたのですが、丁度木立の影が被ってしまってその表情は伺い知れません。

「・・・私もね、その写真はよく知っているの。私がとてもよく知っていた人が、撮ったものだから・・・

 あなたがそう思ってくれたなら、撮った人もきっと喜ぶでしょうね。

 あの写真に写っていたような子供を、もう増やさないために、あなたの様な子供達が、黒と灰色だけの絵を描かないで済むように

 そんな世界を作るために、私たちは働いているの――」

白衣の下のブラウスの、その襟元で『輝く金色の樽』の形をした徽章がきらりと輝きます。

「『地に伏し倒れた旅人を救うように、我々は危機に立つ平和を守らねばならない』。ジョージ・St・バーナード卿というひとが残した言葉よ。

 その名を取って生まれた組織が私の属している特務機関“セント・バーナード”なの。平和を、人の命を守るための仕事よ」

「お仕事は、大変なの?」

「ええ。とても大変で、とても忙しいの。こんな仕事は退屈な方が良いのだけれどもね。早く戦争なんてどこかに片づけてしまって、

 みんなでピクニックにでも行きたいわね」

襟元の徽章に手をやり、にっこりと誇らしげに大きな笑顔を浮かべました。

「ほんとうに世の中から戦争をなくすのはまだまだ遠くて、ずっと先のことで・・・今にでも戦争が起きるかも知れないのよ。

 ZZZ団はまた活動を始めているわ。こんどは、中国でね」

「中国って、おとなりの?」

「そうよ、中国大陸東北部、『満州』と呼ばれている土地で戦争を起こそうとしているの。まだはっきりとはしていなくて、私たち“セント・バーナード”も

 公に介入できないのだけれど・・・ZZZ団は満州のどこかに拠点を作っている。あなたのお父様も、きっとそこにいるわ」

「でも、戦争をするのにどうしてお父さんをさらっていったりしたんだろう?」

 ゆき子さんは、今度こそ本当に、心の底から悲しそうな顔をしました。

「それはね、あなたのお父様が科学者だからよ・・・科学ってそれ自体が道具のような物で、その知識や生まれてくる物はいくらでも戦争のために 

 利用することができるわ。ZZZ団の総統はあなたのお父様を戦争のための道具のように使うつもりなのよ」

 

 タケルはひどく驚いて、大声で叫びました

「お父さんは、お父さんは戦争の手伝いなんてしないよ!ぜったい、そんなことするもんか!!」

「ええ、もちろんそうよ。瀬生博士は戦争に協力なんてしないでしょうね」

「だったら、だったら・・・あいつら、鉄砲とか持ってたから、もしかしたらお父さんのことひどい目にあわせて・・・

 ねぇ、お父さんを助けに行かなくちゃ!早く!!」

ゆき子さんの白衣の裾をぎゅっとつかんで訴えかけます。

「だいじょうぶ、心配しないでね。いま大勢の人達がそのためにちゃんと動いているわ。ZZZ団の思い通りになんて、させるものですか。

 そのための連絡や会議などで遅れてしまったのだけれど、ようやくあなたをここに連れてくることが出来たわ」

 

気がつけばいつの間にか、ふたりは大きな、まるで学校の体育館のような建物の前に来ています。

 

「ここは・・・何をするところなんですか?」

両開きの大きな扉の前を見上げて、タケルは訊ねました。

「ここが、この建物が『第三機械工学研究所』なのよ。このなかに、あなたのお父様が開発れていたものがあるの。この中の物を作り上げるために、

 その研究のために瀬生博士はロンドンに滞在されていたのよ」

「お父さん、家ではあまりお仕事の話はしなかったんだけど・・・いったい、何を作っていたの?」

ゆき子さんは通用口のノブを回しながら答えました。

「ドイツ語で“マシーネン・メンシェ”と呼ばれているものよ。日本語では――」

開いた戸口からひょいっと中を覗き込んだタケルは、驚いて目をまん丸にしました。

「ゆき子さん、これって――」

つづく


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