第四話「地底怪獣」(中篇その2)

 


「これぐらいだな」

「いや、これぐらいだろう」

「いやいや、これぐらいは」

「いや、いやいやいや・・・」

 

 グライムズとリヒター所長は、傍で見ていると何が何やらよくわからない交渉を、互いに指を五本立てたり二本、三本と減らしたりといった身振り手振りを交えて、

結局最後は罵詈雑言の末に、口約束の契約を結んで鉱山へと向かいました。

二人の鉱夫の後を、おとなしくついていく二人連れ。もっともガン・ホーは二人を追い越さないように全力でゆっくりと、そしてタケルは小走りに急ぎながら。

 

「知ってる人だ、なんて言ってもほんとうは自分のことだったんだ。やっぱりへんな人だよね」

例によって一杯引っ掛けられたタケルは、不満な様子を隠せません。

「そうとも言えないよ、タケル」

しかしガン・ホーはなにか感じるところがあるのか感慨深げに答えます。

「自分を知るということはとても大切なことだ。自分が何者で、何が出来るのかを本当に解っているということはね。

 自信を以って自身を知る、それを言葉にできる。それは立派なことだと私は思う」

「そ、そうなのかなあ・・・」

 どうしてもタケルには、頭の横で手をひらひらさせながら、おどけて歩いているグライムズがそれほど立派な人物には思えないのでした。

 

「・・・しかし、一体全体ドラゴンなどという物が本当に存在するのだろうか」

ガン・ホーのその言葉は疑問というよりは独り言に近い呟きだったのですが、タケルの耳にもちゃんと届きました。

「う〜ん、どうなんだろうね。ぼくは、ほんとうにいたほうが面白いかなあ」

「面白い?」

「うん。なにもいないよりは本当にいたほうがきっと面白いよ。つまらないことよりは面白いことが起きてほしいな」

「そうは言っても、やはりドラゴンというのは空想上、想像上の生物ではないのかな」

それを聞いてタケルはちょっと微笑みました。

「ふふふ、そうでもないかも知れないよ。今はわからないけれども、大昔には本物の竜がいたんだよ」

「そ、そうなのかい?」

「ぼくね、見たことあるんだよ・・・」

 

*                         *                            *

 

 タケルはちょっと得意げになって、不思議そうな様子のガン・ホーに中生代の恐竜のことを話してあげました。それはとても古い物語で、

けれどもタケルにとってはほんのわずかに前のこと。幸せだったロンドンの頃の、今では遥かに遠い記憶だったのです。

 

*                         *                            *

 

「恐竜っていってね、ずうっと昔、一億年以上前にはそういう生き物がいたんだよ、ガン・ホー」

「しかしそれはドラゴンとは違うものだろう?」

「それはそうだけど、よく似たものだよ。それにね、恐竜はほろんでしまったって言うけれど、『本当のこと』はわからないよ。

 もしかしたら一頭ぐらい、生き残っている恐竜がいるかもしれないよ」

「・・・そうなのだろうか」

「そのほうが、面白いよ。きっとね」

タケルはとても楽しげに、ガン・ホーに向かって言いました。

「面白いこと、楽しいこと。矢張りそういう物事の方が、つまらないことや辛いことよりは良いのだろうね」

なにやら考え込むガン・ホーのつぶやきを耳にして、グライムズが振り返って言いました。

「そうだろうそうだろう、ガン・ホー君。楽しくなければ世の中イカンよなぁ!」

「鉱山にドラゴンが湧いて出たりしたら、何が楽しいものか」

相変わらず、リヒター所長は苦虫を一杯に噛んだよう。

「・・・確かに、私だってつまらないことよりは楽しいことの方が良いと思うさ。しかし問題はだね、君たち。

 一体全体、世の中で何が楽しくて何がつまらないことであるかを、ちゃんと正しく判断出来ねばならないということなのだよ」

「判断、ですか?」

ガン・ホーはリヒター所長に尋ねました。

「どうすれば『正しい判断』ということが出来るのでしょうか」

「むむ、そうだな・・・やはり重要なことは『常識』かねえ。人間、これが備わっていないとまともな大人にはならんよ、君」

「では、常識とはどうやって備わるものなのでしょうか」

「まあ、さまざまな出来事から色々な知識を身につけて、良識に基づいてそれらを分類することだね」

「知識と良識、ですか・・・。私は生まれて日が浅いので、そのどちらも十分身につけているとは言い難いのです」

人間であれば深いため息まじりといった調子で、悩める言葉がこぼれます。

「いや、世の中無駄に長生きしてる者も大勢いるからな。私の常識で判断すれば、君は随分『良識』にあふれた存在ではある。自分に疑いを持ち、省みる心掛けはよいことだ」

と、言ってからリヒター所長はなんだかバツの悪いような、苦笑いを浮かべました。

「どうかしたのですか」

「昨日までの私の常識ではね、『心を持った機械』などというものはまあ、世の中にいる筈が無いものでね。時に常識というものは覆されるものではあるんだ。

 なにが正しいのか間違っているのか、ある朝途端に変わることもあるのだなぁ」

「常識とはなかなか複雑な事象なのですね」

「君に言われると確かに複雑な思いはするな・・・」

 

「いやはやまったく、つまらない大人になるのは楽しくないことだと、これほど正しく教えてくれるヤツもそうはいないさ」

グライムズはリヒター所長を指差しながらタケルに言いました。

「世の中なんて簡単で単純なもんだ、面白いかつまらないかのどっちかさ。ドラゴンがいたらそりゃ面白いに決まってる」

「そうだよね、もし恐竜が今でも生き残っていたら面白いよね」

「火でも吹いたらこれはもう大騒ぎだ」

「そ、それはあんまり面白くないよ」

 

 四人がそんな実の在るような無いような会話を交わしているうちに、家々の並ぶ街路はいつの間にか過ぎて、気がつけばもう鉱山会社の作業場に足を踏み入れています。

切り立つ岩山と、穿たれた坑道。けれどもリヒター所長もグライムズも、どこかさびれた風景に目をやることもなく、もっと先の、もっとさびしげな場所へ足を運んでいきました。

「ここが鉱山の入り口ではないのですか?」

高いところから周囲を見回して尋ねるガン・ホー。グライムズはなにか投げやりな調子で答えました。

「ここは昔、石炭が少し出たのさ。もうほとんど掘りつくしちまったし、他所で随分やってるとこがあるんでもう誰も入りやしないがね」

リヒター所長も面白くなさそうな顔で応じます。

「今では半分、倉庫みたいなものだな。坑道で使用するケーブル線やダイナマイト等が保管されているよ。正直あまり地震が続くようならこれも移動させないとならんな」

二人の鉱夫はどちらとも、忘れ物が見つからないような、思い出せないことを探しているような有様でした。

 

「しかしま、片手で地震の心配で、片手で地面に降りようってんだから所長さんは大変だね、リヒター君よ」

「それはそれ、これはこれだ。ああその通りで、忙しいんだよ俺は――さあ、着いたぞ。ここが入り口だよ」

 

 リヒター所長が指差したのは、なんだか井戸の王様のような設備でした。

雨よけの屋根が掛けられた下には深い立て穴、大きな巻き上げ機から伸びた鉄骨に支えられるのは人が乗り込む昇降機。

それでもやはり、その場所はなにか寒々とした空気が満ちていました。

「ここの鉱脈からはどんな鉱物が産出されるのですか?」

ガン・ホーの質問にリヒター所長は、少しばかり癪に障るように答えました、

「――タングステンが出る、と言いたいところだがまだまだ試掘の状態でね。なんとか実績を挙げてもっと規模を拡張したいのだけどなあ。

 まったく、どこぞの鉱山技師がなんの因果か見つけた石くれのおかげで随分大勢集まったもんだが、実のところこのままでは経営が立ち行かない。

 商売上がったりというのが実情なのさ。穴掘りの夢なんてのはまあ、どこでも似たようなもんだが」

 

 地の底へと伸びる立抗の口は、人をその深淵へと飲み込みそうで、思わずタケルはガン・ホーの大きな体に身を寄せました。

「ここに、降りていくの?」

「ああそうだそれが仕事だからな。お前さんも一緒に降りてみるかい?」

「ええっ!い、いやぼくは・・・いいです。こわいよ、やっぱり」

「別に怖かあねえぞ。鉄砲水が出たら溺死するし、有毒ガスが出れば窒息死するし、落盤事故が起きたら圧迫死する程度だ」

真っ青になって言葉も返せないタケルにグライムズは面白そうに続けます。

「そんなような難儀な場所だけどなあ、まあ考えてみろよ。人間普通に歩いてメシ食ってたって、死ぬときゃ死ぬぜ。朝起きたら『おはよう』というぐらいに、生命は自然と失われるものさ」

でも、タケルは世を儚む達人である目の前の鉱夫ほどには人生の終着点について達観を得ていなかったので、たまらずかぶりを振って断りました。

「俺は元から子供を坑内に入れるつもりなどないぞ、ブーメラン。大体そんなことをすればお前の受け取る賃金が目減りするだけのなのだからな」

苦々しげなリヒター所長ですが、グライムズは少しも懲りずに

「いやいや、二人分の報酬を掠め取る手だってなくはないさ。それにそう、あそこにおわす百人力を働かせれば二人分どころか、なあ?」

と、今度はガン・ホーに水を向けます。

「なんでもお手伝いいたします。どんなことでも、仰ってください」

「よーし良い返事だ!じゃあまず坑道の中に降りてだな」

「私には少し、狭すぎるようですが」

「むむ、ではその機械の目ん玉で中を照らしてくれ」

「私には暗視装置の機能がありますが、それを外部に伝達することができません」

「しょうがねえなあ、弁当でも作ってくれるかな」

「私には料理は、その、ちょっと・・・」

 

 すっかりしょげこんでしまったガン・ホーを尻目にして、リヒター所長はタケルに昇降機の操作盤を説明します。

「これがリフトのスイッチだ。レバーを上げれば昇り、下げれば降り。簡単なものだろう?」

「上げれば上、下げれば下だね。うん、わかったよ」

「横から突き出してるのはブレーキのレバーだ。これは結構力が要るが、緊急の時でもなければゆっくり引いてくれればいい。

 目盛がこの辺まで下がってきたらこいつを使って減速するんだ」

「うん、うん」

「下と上は一応電話でつながってるが、ここ、この緑色の電球が点いたら引き揚げの合図だから・・・」

 

「どうやら、タケルはちゃんと役目を果たせそうですね」

「まあまあそう落ち込みなさんな。成程狭いところで動き回るのはネズミに向いた仕事だけれど、ゾウにはゾウの仕事がある。たったいま俺はお前さんにぴったりの仕事を思いついたぜ」

「本当ですか!?それは一体、どんな仕事なのでしょうか?」

思わず巨体を寄せるガン・ホーに、負けずに胸を張ってグライムズは答えました。

「ドラゴンが出てきたらそいつを捕り押さえる仕事だ!」

「・・・出てくるまでは何をしていればよいのでしょうか」

「待機だ!」

「・・・グライムズさんは本当にドラゴンが居ると思っているのですか?」

「当然だ!わっはっは」

 

*                         *                            *

 

 背広の上着を脱いでネクタイをほどき、シャツの袖をまくり上げればリヒター所長も差し詰め場馴れた鉱夫さながらの姿。

安全帽をしっかり被り、あご紐を結ぶとこちらは至って普通のままのグライムズと肩を並べて昇降機に乗り込みます。

「それじゃよろしく頼むぜ少年よ。俺は地下にもぐるのは大好きだけれど、落っこちるのは苦手なんでね」

例の野球帽を挨拶代わりに振っておどけるグライムズですが、タケルはそれどころではありません。

「ではタケル君。教えた通りにゆっくり操作してくれればいい。落ち着いて、冷静にな」

「はい、大丈夫です。じゃあ、降ろしますよ・・・」

重いレバーを下げると蒸気機関が目を覚まし、ゆっくりと鋼線が繰り出されていきます。

やがてふたりの男たちは視界から消え、深い坑道の闇の中へ降りていきました。

そしてタケルは一心不乱、いくつもある操作盤の計器に目を配り、額ににじむ汗を拭いもせずに、慎重に昇降機を動かしているのです。

「なあ、タケル。私は一体――」

「あ、ごめんねガン・ホー、いまちょっと手がはなせないんだ」

「す、すまないね・・・」

忙しいタケルの背後では、為すべきこともないガン・ホーが、膝を抱えて座っています。

『目』の絞りを少し開いて、空を見上げるガン・ホー。透き通った青空には、視界をさえぎる雲ひとつ浮かんでいないのです。

 

(人の、役に立つこと)

 

ガン・ホーは声もなく考えました。

 

(なにを、どうやって?)

 

けれども、機械人間のこころに浮かんだ疑問には、応じる答えは見つからないのでした。

 

*                         *                            *

 

 鉱山の地下に降りた昇降機は、ぴったり正しい位置で止まりました。鉱夫の前には真っ暗な闇が広がるばかりでしたが、

リヒター所長が大きなスイッチを入れると、暗い中にもささやかに電球の明かりが灯されていきます。

いくつかは切れたまま、不安定にまたたくものもある中で、岩盤の中にうがたれた坑道と、それを支える垂木の列が照らし出されました。

「初めてにしちゃうまいもんだなぁ」

小さく、ぽっかりと開いた地上を見上げるグライムズ。陽の当たる場所は、ひどく遠くに感じられるものです。

「貴様なんぞよりよっぽど頼りになりそうだな、いっそ会社で正式に雇ってもよいかも知れん。あのロボットだって十分、使いどころがあるさ」

リヒター所長は大きなシャベルやつるはし、電線を通じて駆動する削岩機など現場の道具を台車の中に載せていきます。

「はははっ、そりゃあどうかな。あの二人は労働基準だの賃金体系だのよりも、もっと他に探してるものがあるそうだぜ」

「あの年頃なら普通はそうだろうな。やりたいこと、やるべきこと、子供の手には余るぐらいにあるもんだ」

「いやいやそういう訳でもなくてだな、あのふたりのやるべき事はひとつしかないんだそうだ」

「ひとつだけだって?」

「ああ。ほら、ZZZ団ってあるだろう」

「あ?あー、Zeitlich Zerfallen Zentrale のことか?あの馬鹿者共がどうかしたのか?」

リヒター所長はなにか嫌なものを思い出したかのように、でも発音は正確にその名を呼びました。

「なんでもあの子の親父さんが連中にさらわれてんだとさ。だもんで連中の秘密基地を見つけてだな、助け出すんだとよ」

「それは本当かブーメラン!」

「・・・子供だったらそれぐらいのウソもつけるかも知れないがね。まあ、あのロボット見てればそんなことがあるだろうとも思うぜ」

「そうじゃない、国際戦争協議会の根拠地を探しに来た者が、今ここにいるってことはつまり、連中がどこか近くにいるってことか?」

「どうやら、ZZZ団のアジトがこの辺にあるらしいんだと」

「そ、そんな大事なことをなんですぐに報告しないんだ!」

「報告って別に俺はあんたの部下じゃあないからなあ。それに鉱山会社の仕事とは、直接関係がないんじゃないのか」

「俺の気分と直接関係があるんだ!」

「ほう」

「あの連中はな、世界大戦の後、俺の故郷で散々に暴れまわったんだ。強盗放火殺人から、なにからなにまで『戦争の為』って言ってな。誰がまた戦争なんぞ、望んだりするものかよ」

「珍しく熱いねえ」

「お、俺はただ『総力戦に総力を』なんて言ってる奴等が嫌いなだけだよ!・・・さあさあ仕事だ、動いた動いた」

リヒター所長は慌ててついと背を向けたのですが、薄暗い裸電球の明かりでも、照れくさそうな顔をしていた事はわかりました。

 

「・・・しかしあんな年頃でZZZ団なんて連中に関わらなきゃあならんとは、気の毒なことだな。子供ってのは普通、もっと楽しいことをするものだろう?」

「普通の子供なら、そうだろうがな」

グライムズはつまらなそうに相槌を打ちました。

 

「けれどな、リヒター。俺はあれぐらいの年にはもう鉱山で働いていたんだ」

「俺だってそうだよ、ブーメラン」

二人の鉱夫は心もち背を丸めて、暗い坑道の中を進んでいきました。

 

*                         *                            *

 

 高い高い空を見ていたガン・ホーは、足元に誰か人影が近づいていたことにも気がつきませんでした。

「おおい、お前さん、どうしたね?ZZZ団は空でも飛んでいるのかね」

あわてて地面を見下ろすと、傍らでこちらを見ているのはあの居酒屋の老人でした。

「いえ、そういうことではないのです。私はただ――」

何も言えずに、口ごもるガン・ホー。

「ただ、どうしたね」

「ただ何もしていないのですよ」

とても悲しそうに言いました。

「それはそれは、結構なことじゃなあ」

老人はにこにこ笑って応えます。

「それが結構なことでしょうか?みんながそれぞれ、自分の役割を果たしていると言うのに、私には為すべき事が見つからないのです」

「ワシなんぞ朝から千客万来、手がいくつあっても足りん。店の酒棚が飲み干されそうな勢いで、在庫を取りに来たところじゃよ。全く酒飲みは老人を敬うことを知らんものでの」

「それは、私にはとてもすばらしいことに思えますが」

「そうでもないぞ、これがただの酒飲みならば楽しいものじゃが、今日の連中は『労働委員会』なんぞをぶち上げおって、うるさくてかなわん」

「労働委員会?」

「みなで集まって気勢を上げようとする団体じゃよ。酔い始めると暴れだす」

「それは普通のお客さんとなにか違うのですか」

「うむ、殴り書きで作成した宣言にの、共同署名を強要してくるのじゃ。気を抜くと『今後三十年間ハ酒代ヲ無料トスベシ』なんぞの、恐ろしい文書が回されてくるわい」

「それは・・・大変ですね」

「お前さんたちはここで試掘かい。ブーメランと所長が組んで降りとるなんぞ珍しいことじゃが、こりゃ本当に竜の一匹でも湧いて出るかも知れんなあ」

「ドラゴンが出てきたら、それを逮り押さえるのが私の役目だそうです」

「なんじゃ立派な仕事があるではないか。お前さんの図体と膂力ならば、泰山鳴動するほどの竜でも捕まえることができようの」

「しかし、しかしですね」

ガン・ホーはたまらず悩みを口に出しました。

「ドラゴンが、もし本当に出てきたらそれはきっと大変なことです。私が逮り押さえなければならないようなものならば尚更です。

 そんなものが現れて、困る人々を助けられることは、とても嬉しい。機械とは本来、人の役に立つためのものだからです。

 でも、『人が困ったときにしか役に立たない機械』だったら、そのようなものは存在しない方が良いことなのではないでしょうか。

 ひとは、困らないほうが良いに、決まっているのですから――」

 

マシーネン・メンシェのガン・ホーは、そのようなことを考えていたのです。

 

*                         *                            *

 

「むかしむかし、中国のとある地方に『杞の国』というところがあってな」

ガン・ホーの声に耳を傾けていた老人は、しばらく考え込んでからゆっくりと話し始めました。

「きのくに?」

「うむ、そこはとても変わった国で、住んでる人間が全員悩んだり困ったりしていたのだ」

「は、はぁ・・・」

「皆が何について憂いていたかといえばこれが、『いつか空が落ちてくるのではないか』というものでの」

「空が、落ちる?そんなことがあるのですか?」

「いやいや、そんなことは起こらんよ。よその人間から見ればひどく馬鹿げた心配事での、それ以来悩む必要がないものについて悩み、困る理由がないものについて困ることを

 『杞憂』と言うようになったんじゃよ」

「杞憂ですか・・・私が悩んでいることも、傍目で見れば無意味で不必要なことなのでしょうか」

やはりガン・ホーの気分は落ち込んだままなのです。

「そんなことはないじゃろう。己の在り様について悩むことなぞ、誰でも通ってくる道じゃ。悩まない者のほうが珍しく、生き方としては物足りない」

「そうでしょうか?悩んでいたほうが良いと言うことが、私にはよくわかりません」

「いやな、良し悪しではないのじゃよ、『悩み』というものはの。そして大切なのはその先じゃ。杞の国というものは今はない。空が落ちてくると思う人も今はいない。

 皆気がついたんじゃろうなあ、悩むことは自然で必然だが、それよりも大事なことが、世の中にはあるのじゃよ」

「もっと・・・大事なこと?」

「悩んでそして、そこから離れることじゃ。いつまでも留まっていることなく、の。

 人生悩みも苦しみもあるじゃろうが、それを抱えているだけでは進んで行けぬ。扉は開けるためにある、橋は渡るためにある。どちらも人を立ち止まらせるものではあるが

 人を留め置くためのものではないようになあ」

「・・・」

すっかり考え込んでしまったガン・ホーに、居酒屋の老人は言いました。

「杞の国がなぜ無くなってしまったかというとの、憂いてばかりの世情に皆嫌気がさしてしまったからなんじゃ。『杞の国は嫌だ』といって船を作り海を渡り、

 日本に移り住んで商売を始めた。あー、確かキモノを売る店だったか、ともかくその名を」

老人はひと呼吸置いて厳かに告げます。

 

「『紀伊国屋(きのくにや)』と言ったのじゃ」

 

ガン・ホーはまばたきするように目のシャッターをぱちぱちと開閉させました。

「成程、そんなことがあったのですか」

「・・・やはりこの小話、あまり面白くはないようじゃな。日本人なら抱腹絶倒という触れ込みだったが、どうもふた月のツケと酔客の小話はあてにならん」

「こばなし?」

「いやいやなんでもあるまいぞ。ワシがなにをいいたいかというとじゃな、悩み事大いに結構、されどそこから答えを見つけることが重要だと言うことじゃ。

 空を見るのは悪くはないが、ただ見続けるだけでは杞憂は解決しないものじゃな」

老人はガン・ホーをじっと見つめ、それから少年の方に向き直りました。 

「ひとは困らないほうが良い、確かにその通り」

先刻からタケルは老人の言葉に気づくこともなく、操作盤を真剣に見つめています。

「しかし矢張りひとは困るものじゃよ」

「・・・困難に直面し、苦難に耐えているのは、私だけではありませんね」

ガン・ホーの『目』も、タケルの背中を見つめました。

「そう、そしてお前さんだって手に負えない事があるじゃろう。なにか困ったことが起きたらワシのところに来ればいい。なに『労働委員会』と言ったって酔っ払いの穴掘りさ。

 心根は助け合いで、出来ているものさね」

 

*                         *                            *

 

「ねえガン・ホー、いま誰か来ていたの?」

タケルの声にガン・ホーは物思いから覚めました。気がつけば老人はもうどこにもいません。

「うむ、あの居酒屋のお爺さんが来ていたよ。もう行ってしまったが」

「そうなんだ。全然、気がつかなかったよ。ずっとダイヤルやメーターとにらめっこしてたからね」

「何か変わったことはあるかい?」

「う〜ん、なんにもないよ。電話もならないしね。何か起きたら大変だって、ずっと見てるんだけど」

「何もないと言うことは、きっと無事に進んでいるのだろう。良いことだよ」

「ああ!そうだね、ガン・ホー」

安心したのか、ひとつ深呼吸するタケル。気持ちばかり疲れてしまってどうにも落ち着きがなかったのです。

少年のそんな様子を見て、ガン・ホーは優しく声をかけました。

 

「もしこれから先、タケルの力では開けないような重い扉があれば、その扉は私が開こう。タケルの足では渡れないような長い橋があれば、その橋は私が渡ろう」

「ん?それじゃあガン・ホーの体では入れないような小さな扉や、ガン・ホーの足では切れちゃいそうな細い橋は、ぼくが渡るよ」

ちょっと不思議そうな顔をして、それからタケルは、すぐにこたえました。

 

それからガン・ホーは空を見上げるのをやめて、タケルの姿を見つめていました。

 

*                         *                            *

 

そしてそのころ、地下の坑道の中では、

「こりゃ随分とデカい岩だなあ、おいリヒター、ちょっとこいつをどかしてくれないか」

「俺は忙しい。お前が勝手にやれ」

二人の鉱夫が助け合うこともなく労働していたのです。

「・・・お前さん普段は事務所の書類仕事ばかりで、たまの坑道現場は楽しいだろう。もう一丁楽しんじゃあどうかねえ」

「俺は普段事務所で書類仕事ばかりで、目の前の坑道現場が楽しくて仕方がない。だから、他人事にツルハシを突っ込む気もない」

軽口を叩きながらも、二人の手が休まることはなく、坑道はだんだんと拡張されていきました。

 

そしてそのころ、鉱夫たちが「竜」あるいは「ドラゴン」と呼び畏れていたものが、二人に向かって刻一刻と近づいていたのです。

闇の中を。

 

*                         *                            *

 

最初に異変に気がついたのは、グライムズのほうでした。

リヒター所長が手を休めて、額の汗をタオルで拭っているその時に、

「なんだか少し、暑くはねえか」

リヒター所長は泥汚れをくまどりのように頬に垂らして満面の笑みを浮かべます。

「ああ、そうだなあ。久しぶりに気持ち良い汗をかいてるよ。なんにも出なくても楽しいもんだ」

「いや、そうじゃないんだ」

なにか気がかりなことがあるように、不審気なグライムズ。

「どうかしたのか?」

返答もなく、節くれだった手のひらを、坑道の壁に這わせました。

薄暗い電灯では映らなかった水滴が、壁一面から染み出しています。

そして、動いていた二人には気がつかなかった熱気が、

その手にはっきりと伝わってきたのです。

「妙だぜリヒター。ここの鉱山は冷え切ってるはずじゃなかったのか」

「そいつはつまらない皮肉じゃあるまいな」

リヒター所長も同じように壁に手をやります。

「む?なんだ、これは・・・」

二人ははっと顔を見合わせ、地面に耳をあてがいました。

 

ゴーッ

 

と、なにか巨大なものが、地下深くを進んでいるような、とどろく音が聞こえてきます。

「ブーメラン、急いで地上に戻るぞ。少しばかり不味い状況だ」

「合点承知!」

言ったそばからグライムズは矢のように駆け出しました。

「あ、おい、ちょっと待て。そんなに急ぐな!」

リヒター所長は辺りに散らばった道具をあわてて拾い集めて言いました。

「なにやってんだリヒター!早く来い!!」

「そうは言っても備品が備品が」

「そんなもん、後でどうにでもならぁ、急げよ!」

襟首をつかまえてずるずる引きずる間にも、坑道の中はどんどん熱気で溢れていきます。燃え盛る何かが、近づいてくるかのように。

「まったく、生命は買い替えが利かんのだぜ」

「道具の一個だって、そうそう使い捨てられても困るんだが・・・」

そして熱気だけでなく、ぱらぱらと土くれがこぼれ落ち、坑道全体が揺れ始めます。

薄暗い電球の光は、不安定で不揃いなダンスを踊りだし、今にも千切れて消え去りそう。

「イヤッホー!ドラゴンのお出ましだぜ!!」

「地震だ、これは、ただの、地震だ」

二人は息を切らせながら昇降機のもとに辿り着きました。

すぐに電話機に駆け寄るグライムズ、受話器の向こうから、直ちに真剣な面持ちの声が返って来ます。

“はいッ、もしもし!大丈夫ですか?”

「うむ、こちらは――

 

*                         *                            *

 

ガン・ホーの体の中の機器は、誰よりも先に異常を検知していました。

「タケル、二人に連絡を取ったほうがよさそうだよ」

「どうかしたの、ガン・ホー?」

「いま、何かが地下で動いたような、そんな振動が感じられたんだ。もしかするとこのあとに――」

言い終わらない内にもう、地面がぐらりと揺れ始めたのです。

巻き上げ機が不安定な弧を描いて揺れ動く下を、タケルは懸命に操作盤のもとに駆け寄りました。果たして緑色の電球は、悲鳴を上げるように点滅しています

「はいッ、もしもし!大丈夫ですか?」

必死の声に答えたのは、どこかとぼけたグライムズの声でした。

“うむ、こちらはオーソン・ウェルズだ。いま、裏庭に火星人がな”

「ええっ!?」

なんのことやら、一瞬訳のわからない応答。しかし直ぐに、人の頭が叩かれるような音に続いて受話器の向こうの声も変わりました。

“――この馬鹿野郎、冗談を言ってる場合か”
“――なに言ってんだ、いつだってこころを休め、気持ちを――”
“――タケル君、馬鹿は気にせず直ちにリフトを上げてくれ給え!”

「は、はいっ!!」

力いっぱいレバーを上げると、蒸気機関も鋼線の束も、全力で悲鳴を上げます。

巻き上げる速度に追いつき追い越すように、地面の揺れもその激しさを増し、

そして、いくつかのことがほとんど同時に起こりました。

突然かたむいた昇降機、地面に広がるひび割れ、そこから噴き出す蒸気と、

 

不意に切断された鋼線。

 

 巻き上げ機の勢いは衰えぬままに鋼線を引き続け、張力を失った鋼線は宙を舞い、

まるで恐ろしい首切り刃のように、あるいは竜の尾が振り回されるように、鋼の鞭はタケルの元に襲い掛かりました。

 

つづく


inserted by FC2 system