第五話「二十世紀サーカス団」(前編)

 


「元々夫婦喧嘩の仲裁に鎧武者が出張って来たようなものだったのだから、ものの役に立つ筈がない。役不足とはまさにこの事だな」

群青の空の下、枯れ草色の槍ぶすまのように居並ぶ鋼鉄の群れ。

「役に立つほどの相手がいれば、それはそれで喜ばしくもあり、さりとて困ることでもあったろうが・・・」

少しばかりは口惜しそうな、少しばかりは安心したような、いささか自嘲的な笑みを浮かべてその将校は整然と並んだ野砲群を見遣りました。

「混成旅団と言えば聞こえがよいが、実際派遣されてみれば分断され分派され、実働が混成であった例しが無い。歩兵や工兵はそこいら中で便利に使われたものだが、

 我が隊は結局ただの一度も布陣することなく任を終え、こうして帰路に就く。一体全体何のための派兵だったのか正直なところ理解に苦しむものだが――」

 

ひとたび咆哮すれば鬼神と雖も是を避く。独立混成第一旅団、機動野砲兵第一大隊は一分の隙もなく整列し、しかしその車列も砲列も全ては撤収の為の準備を終えていたのです。

 

「・・・しかし貴官は運が良かった。もう一日遅れていればこの屯所はもぬけの空であったろうな」

「日頃の鍛錬の賜物と、心得ております」

心労を隠しきれない砲兵隊長に対峙した戦車将校は、戦闘精神が塊となったように揺るがず答えました。

「運不運の問題ではない、か・・・我が隊は撤収するがこの先いくつか警備部隊が置かれている地区もある。本部中隊で事項を確認しておけ」

「はっ」

「段列からは燃料他消耗部品もいくらか融通できるだろう。本来なら野砲の一門でもつけてやりたいところだが流石にそうは行かん」

「いえ、十分であります。お心遣い、痛み入ります」

「それとな」

「何か」

「如何に鍛錬していようとも人間だって補給を受けねば動けまい。幸いこちらは食い物には不自由しなかったから十分備蓄がある。なにしろ暇を持て余していたものでな。

 射場の割当地はあらかた畑に作り替えた。手前味噌だが沢庵は相当出来が良いぞ」

その将校とその精神は折れずに不動のままですが、背後に控えた戦車兵達もまた将校自身も、澱のように溜め込んだ疲労を隠しきれないことは誰の目にも明らかでした。

「あ、有難く頂戴いたします・・・」

いささか気色ばんで答えた山田七四中尉の頬に光ったのはひとすじの涙かはたまたヨダレか。颯爽と振り返ると苦楽を共にする部下達に告げました。

「全員直ちに物資を受領、但し砲兵大隊は行軍準備中である故、無駄な手間を取らせないよう留意せよ。行って良し」

「はいっ、中尉殿!」

久喜曹長以下四人の戦車兵は一糸乱れず並んで駆け出し――立ったまま寝ている伊勢崎軍曹をつつがなく走らせる手練手管は一同十分に心得ていましたから――車列の後方へと

走り去っていきました。

「戦車中隊一個を機動予備として残置するとは聞いたが」

いずれもくたびれきった兵隊達を眺めて砲兵隊長は言いました。

「あれで、全員か」

「現状、独立戦車第一大隊第五中隊は中隊長車一輌を除いて全て欠、であります」

「それを『中隊』などとは呼ばんだろう。編制上はともかくとして実態がこれではなんの任務も遂行し得んぞ。いや」

隠蔽された陣地を探るように目を光らせ、山田中尉の背後にあるもの、それは決してただ一輌の戦車などではない、何か別のものを見るような顔をしました。

「・・・実態はともかく編制上は兵力が残置されていると、そういうことか」

 

「大局の観点は小官の考え及ぶところではありません。自分は自分に課せられた任を全うするのみであります」

例え泣く程お腹を空かせていても、山田中尉の敢闘精神が折れ曲がることはないのでした。

「山田中尉」

砲兵隊長は周囲の人間が十分離れた頃合いを見計らったかのように、突然声を潜めて言いました。

 

「今すぐ乗車を破棄して隊列に加われ。戦車はともかく貴様等だけなら員数外で幾らでも言い訳はつく。こんな所に残される連中はいずれはただの捨て駒にされるぞ」

 

「部隊長殿」

山田中尉は眉根ひとつ動かさずに言いました。

「只今のお話は聞かなかったことにしておきます。いやしくも軍人である者が妄りに軍規を犯すような言動があってはなりません」

能面のような表情からは、なにひとつ伺い知ることが出来ません。それはまるでひとの形をした機械か何かのようです。

「む・・・日陰暮らしが長いと錆び付いていかんな。いや、忘れてくれ。下らん事を言った」

「元より自分は何も聞いておりません」

「そう、そうだな・・・道中は難儀だろうが、無事に過ごせよ」

「元より覚悟の上であります。部下の監督に向かっても宜しいでありましょうか」

「うむ。ああ、いや待て。ひとつ言っておく」

砲兵隊長はやはり複雑な表情を浮かべていました。それはまったくひとらしい逡巡と内憂を示すようでした。

「正直上層部が何を考えているのか皆目見当が付きかねるが、内地帰還後独立混成第一旅団は解隊されるだろうとの見方が強い。先行きの知れぬ身はお互いだが・・・

 万が一、再び何処かで相まみえる機会があれば、その時には轡を並べて共に戦おう。それまで貴官と貴隊の武運を祈る」

「重ね重ねのご厚意、有り難く思います。山田中尉、任務に戻ります」

あざやかな敬礼をして、山田中尉もまた走り去っていきました。月光の下、車列の中に消えていく背中を見つめて砲兵隊長は一人呟きました。

「あれでは長生きは出来んだろうな」

その声が届いた者は誰一人として居りませんでした。

 

*                                   *                              *

 

 二式砲戦車“ホイ”の周囲上では一同が鈴なりになって木箱や燃料缶といった砲兵隊からの給与物資を結わえつけていました。

「ほらほら中尉殿見てくださいよ、『猫またぎ』をこんなにもらっちゃいましたよ!いやぁ気前の良い連中だなあ」

小脇に木樽を抱えてこれぞ我が人生最良の日とでも言わんばかりに満面の笑みがこぼれた久喜曹長。しかし山田中尉は先刻からの無表情をひとつも崩すことなく歩み寄ると、

無言のままに拳固を叩き付けたのでした。

「ひやぁっ!なな、なんでありますか一体っ!」

あっという間に人生いつもの真っ暗闇へと転がり落ちたかのような有様ですが

「馬っ鹿野郎、阿呆面晒してるんじゃねえや、無様と言うにも程があらあな」

と、鬼のような形相に早変わりした山田中尉の焼け石のような視線にまったく射すくめられてしまうのです。

「お言葉ですが、中尉殿」

機関室の天板から加須軍曹が、詫びるように声を掛けます。

「やはり余所の部隊を訪ねて回って物資を分けて頂くというのは元より様になら無いことでありますから・・・これではまるでその・・・」

山田中尉の表情が焼け石に水をぶっかけたようになってきたので続く言葉は流石に口に出せないのでした。

「なんだか『わらしべ長者』みたいですよね、自分ら」

羽生伍長は車体下から声だけ掛けて、なるほどそこには視線も拳固も届かない安全地帯なのです。

「いやお前、ただヘーコラして物もらってるだけなら『わらしべ長者』たぁ言わねえだろうよ、そういうのは普通『物乞い』とかな」

無防備なままでそんな事を言えるほど命知らずの久喜曹長のもとには迫撃砲弾のように拳固が降り注ぎます。

「いいかよく聞け馬鹿野郎共、自分を安売りするようなタマはなぁ、いつか買い叩かれてそれで終わりだ。そんな目に遭いたくなけりゃな、

 どれほど無様に見えようが矜持だけは高く持っとけ。解ったかよおい、解りゃあモタモタしてねえでさっさと積める物は積み込んどけ、いつまでもこんなところに長居はせんぞ」

「どうかなされたのですか?」

落ち着きやらない山田中尉の様子に、伊勢崎軍曹が問いました。

「どうもしやせん、他部隊の目がある前であまりみっともない真似をするなと、そう言ってんだよ。ったく揃いも揃って馬鹿ばかりだな手前ェらは――」

深く深くため息をつくとぽつりとひと言、漏れた声は、

「・・・馬鹿ばっかりだ」

やはり誰にも聞こえないのでした。

 

「それはそうと中尉殿、耳寄りな話を聞きつけたのですが」

羽生伍長が油まみれの顔をのぞかせて言いました。

「なんでも流しの曲芸団が近辺を巡業していたとかで、うわさ話ならそこを当たってみたらどうかと段列で言われまして」

「・・・曲芸団だってえ?」

「はあ、たいそう珍しい曲芸団だったそうでこれはもう一見の価値があるとか」

「一見の価値かい」

山田中尉はふふ、と微笑を浮かべて羽生伍長を見つめました。

「気の抜けたことを言ってやがると――」

騎兵科譲りの長靴を一歩前へと歩みだし、

「――手前ェを曲芸団に売り飛ばして本当にわらしべ長者よろしく食い扶持を稼ぐぞ、この腐れ馬鹿めが」

微笑は牙を剥いた虎のような笑顔に変わり、爪のないままでも十分に恐ろしい爪先がぐりぐりと鼻先に押し付けられ、折檻される羽生伍長を前に

久喜曹長と加須軍曹は怖気に震えるのでした。

ひとり伊勢崎軍曹だけが冷静なままで

「羽生君がいなくなると操縦が手間になりますが」

などとたずねます。

「ったりめえだ、冗談だよ」

「はあ、冗談だったのですか。それは失礼致しました」

不機嫌止まぬ事この上ない山田中尉でしたが、伊勢崎軍曹はまったく動じることもなく、まるでどこか神経が伝達していないかのように普通に言葉を継いで行きます。

「しかし我々が迷子同然になっているのは変わりません。溺れる者は藁でも掴むものですが、この際どれほど無様だろうと任務遂行のためには利用すべくも可と考えます」

「伊勢崎よ、貴様の言うことには一理も二理もあるのだがな、しかしそんな胡散臭さそうな連中とは関わらんのだ我々は」

「何故でありましょうか」

山田中尉はじっと腕を組み、両足を固く大地に踏みしめ、中天に顔を上げ、天道に目を閉じて、一同に聞かせるよう、ひと言ひと言を穏やかに言いました。

「何故なら、例えどんな境遇に在ったとしても、我々が進むべき道は、正規のものでなくてはならんからだ。我々は辺土を彷徨う無頼の集まりなどではない。この身は偏に軍人である。

 故に、間諜密偵の類なんぞとは金輪際関わりを持たぬ。否、持ってはならんのだ」

「なるほど、仰ることはよく解ります」

伊勢崎軍曹は少しも表情を変えずに言いました。

「しかし、中尉殿・・・」

「なんだよ」

「曲芸団というものは別段間諜密偵の類とも思えませんが」

「あんなのただの人さらいじゃねえかよ!誰がそんなもんに金出すかよ!!」

山田中尉はいろいろなことを誤解しているなと一同揃って思ったのですが、さりとて誰しもそれを正そうとは思わないのでした。

 

空っぽの弾薬箱の中まで補給物資を満載させれば準備は完了、一同配置に付いたところで木樽に片足しっかり乗せて、一本引き抜いた沢庵の、糠も取らずにそのままに

ひとくち囓り取って山田中尉は号令を発しました。

「前進!」

「ですからどちらへ」

「前だよ前!進めっ!!」

沢庵を指揮棒のように振り回せば米糠が飛び散って狭い車内は大迷惑です。

 

「まったく一体どこへ行っちまったんだ、お前達はよ」

周囲への迷惑など少しも気がつかずに、山田中尉は物思いにふけるのでした。

 

*                                   *                              *

 

「この機体が我々の予想を遙かに越える装甲強度と機械膂力を持っていることは明かである」

ZZZ団総統は電送写真を並べて言いました。

総統の執務室、卓子を囲んだZZZ団の隊員達は皺も汚れもひとつとしてない戦闘服に身を固め、いずれも高位の階級に属すであろう幹部の面々と見える一同は

装甲作業機“モンストゥルオ”を破壊した恐るべきマシーネン・メンシェの姿形を真剣な面持ちで見つめました。

「無闇に巨大な人形程度と侮って掛かかれば、必ずや手痛い敗北を帰すであろう」

「お言葉ではありますが、閣下」

隊員の一人が発言しました。

「見たところこの機体には火器が一切搭載されておりません。“モンストゥルオ”を破壊せしめたのも直接には人手により投擲された爆薬だと聞いております。

 故に単体として見ればやはり戦争機械としては甚だ性能に劣り、工兵器材としてはともかく到底戦力とは言い難い物だと小官は考えます」

「ふむ、確かにその通りである」

総統は言いました。

「しかし、このマシーネン・メンシェの真の戦闘能力は火力でもなければ膂力でもない。実際の所それは『応用性』に尽きるな」

「応用性?」

「そう、我輩や諸君等が日々なんの感慨もなく振るっている能力のことだ。我々はそれを用いることにより戦略を立て戦術を編む。この機体はな、それが出来るのだ。

 強力な敵を相手に内懐でこれを拘束し、随伴歩兵に近接攻撃せしめる機会を作り出す。果たして我が軍の戦争機械に自動的にそのような判断をし行動を起こせるものがあるだろうか。

 自律輝動、それこそがまさに脅威というものであろう。未だこの分野に於いて、我々は後塵を拝しているのだ」

 

「例え我らの戦争機械が単なる機械だとしても」

また別の隊員が発言します。

「我々自身は戦略戦術を駆使する者であると、自負しております」

「無論その通りである。でなければ諸君等がこの場所に立っていることはなかろうよ」

総統は少しばかりの苦笑いを浮かべて言いました。

「いずれにせよこの機体は我々にとっては障害である。現在行動中の各隊には発見次第直ちに破壊するよう伝達せよ」

「捕獲ではなく破壊でありますか。分析、研究の対象としては十分な価値があると考えます」

「確かに稼働中の“水晶頭脳”が入手できれば僥倖であろうな。だがその為に攻撃を躊躇するようなことがあってはならぬ。それは油断や過誤を招くことだ。

 彼らの動向が最終的に確認されたのはタングステン鉱脈試掘地域であったが、現在これに最も近傍して活動しているのはどの部隊かね」

総統の諮問に応じて一人の隊員が作戦地図を取り出し、複雑な記号や線分に飾られたそれを検討します。

「マシーネン・メンシェの移動速度についてはおおよその計算が立ちますが、移動方向はあくまで仮定に基づくものとなります」

「かまわん、それで良い」

「おそらく最も近いのは襲撃地雷の試験運用班でありましょう。ただ現時点で同班は都市部・居住地域を中心として秘密裏に活動中でありまして、擬装行動を執っております。

 公に戦闘行為を行えばZZZ団としての正体を明かすことになりますがこの点については、如何に」

「考えるまでもない、見敵必戦である」

「フォン・クリーゲ!直ちに伝達致します」

「搭乗員の処遇については如何に。この者は現在当基地に身柄を拘束している瀬生草蔵博士の血縁と聞きましたが」

一人がタケルの写っている写真を手に取り尋ねました。

「問題にならんな。子供が一人、生きようが死のうが大局に影響を及ぼすものではないのだ」

仮面の下で伺えなくとも、総統の表情が少しも動かされなかったことは明らかでした。

「さて、何処に居るのやら・・・」

総統は硝子の奥に隠された視線を上げて、遠い彼方の何処かを探るようにひとり呟きました。

つられて部下達も皆視線を上げてみるのですが、誰一人としてコンクリートの天井以外のものは見えないのでした。

 

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「なんとまあ簡単に見つけられるもんだな」

と、青年は呟きました。山田中尉やZZZ団総統にとっては広大な満州の地にその姿を掻き消したようなガン・ホーですが、その身の丈は二階建ての家ほどもあり、

ましてやその歩みは確実に一歩を踏みこそすれ決して疾きものではなく、鉱山街で二人の足取りに迫った謎の青年がその自動車の快速を持ってすれば、

追いつくのも容易いこと。大型の双眼鏡のレチクルにはもうすっかりガン・ホーの姿が捉えられていたのでした。

 

「さて」

と愛車の平屋根に片肘ついて謎の青年は呟きました。

「どの手で引っ掛けるかね」

(どの手で引っ掛けるか)

例え目元は涼しく笑っていても、バックミラーに映る口元は笑みなど少しも見せないのです。

 

「相手は子供とロボットかい。まったくそれじゃあ『お嬢さん僕の部屋で一緒に銅版画のコレクションを鑑賞しませんか』も『オッサンこいつは俺の奢りだ』も使えやしない。

『坊やキャンディーやるからちょっとおいで』は・・・多分あのデカイのに止められそうだよな」

 

誰も見ていず聞こえておらず、それ幸いにか青年はいくつも声色を使い分け、青空興行でただ一人、お芝居でも演じるかのよう。

 

「『私はメキシコから来た観光客で、走るサボテンの怪を追跡しているのです!』いや・・・こりゃ・・・だめだろうな。うーん私立探偵ならいけるかも知れないな。

 『ちょっとした重大事件を解決するのに是非とも君の協力が必要なんだよ。もちろん警察には内密にね』うん、こいつはいいや」

 

しかしいくら見回してもこの辺りには事件など何もありそうにないし、そもそも内密にすべき警察組織は影も形もありません。

 

「やれやれどうしたものかな」

大仰に空を見上げてみても正解など書いてはおらず、ため息ひとつで地を見下ろせば一人芝居に興じる間にもガン・ホーはどんどん歩み去ってしまうのです。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」

台本も演技も無しに驚いて、青年は大慌てで自動車に乗り込みました。小さな鍵のひとひねりでエンジンは直ぐに動きだし、排気炎を残して颯爽とスタートします。

「ちぇっ!結局、つまらない手だなっ!」

(つまらない手だ)

ミラーの中ではまるで文句を言うかのように口元が動いていました。

 

*                                   *                              *

 

「中に入った方が良さそうだよ、タケル」

「急にどうしたんだい、ガン・ホー?」

「何物かが急速に接近中だ」

ガン・ホーの耳はエンジン音をすぐさま捉えました。そしてすぐにそれはタケルにもはっきり聞こえるほどの音量で迫ってきたのです。

砂塵を巻き土煙を揚げ、急速に寄り来る影姿。曙光を照り返す金属の煌めきとなによりもその駆動音からふたりは声を揃えて身構えました。

 

「あれは、ZZZ団の・・・」「戦争機械かも知れない」

 

戦車の突進でさえ受け止めるその巨体に、臆することなく一直線に突き進んでくるその物は、低く構えたボンネットに、クロムメッキのエンジン・グリル。

四つ並んだヘッドライトと、四つ止まらぬステンレス・スチール・ホイールは紛うことなく、それは――

 

「自動車のようだが」「でも、見たことのない形だよ」

 

それは確かに自動車だったのですが、その姿形はふたりの知識と世の常識からは縁遠いスタイルをしていました。姿形はそれまで知ったどんな車よりも低姿勢で

地面にしっかと張り付くよう。なめらかに角の落ちた四角形なボディには空の青を鍍金掛けしたような銀青色が染め上げられ、四つの車輪はアイス・スケーターより滑らかに地表を駆けて

今にも中空に飛び出しそうな速度で走り続けるそれは少しも戦争機械に思えるものではなかったのですが、さりとてただの乗用車とも到底思えないのでした。

そしてその自動車はまるで槍騎兵が突撃するようにガン・ホーに迫り、ガン・ホーはこの挑戦を受けるかのように両腕を持ち上げ、天高く排気炎を吹き上げました。

意志に構わず閉じようとする目蓋の動きを必死に押し止めるタケルが、その眼の真中にぎらり輝く銀色のエンジン・グリルを捉えたときに、

ひときわ高く、金管楽器のような音色を響かせてホーンを鳴らすと、自動車は急カーヴを切ってガン・ホーの傍らを颯爽と駆け抜けたのです。

「あ、あれ?通りすぎていっちゃったの」

「どうやら、そのようだな」

頭を巡らせたガン・ホーの目が車を捉えると、サイド・ウインドウから伸ばされた手がひらひら振られている様が映りました。

「何か、運転手が挨拶をしているようだね」

「へええ・・・」

タケルはすっかり心を奪われたかのように去り行く姿を見つめます。

「格好いいなあ。ぼくたちふたりとも、なんだかまちがってたみたいだね」

「うむ、何でも直ぐにZZZ団だと決めつけるのは良くないことだね」

「う〜ん、でもしかたないよ。あんな自動車を見たのはぼくもガン・ホーも、初めてだからね」

「確かに、見慣れない形式だった」

「きっとレーシング・カーとかスポーツ・カーっていう自動車さ。すっごくスピードが速くて、競争したりするんだよ」

「スポーツ・カーだって?」

ガン・ホーは問いかけました。

「何故そんな車が、たった一台でこんなところを走っているのだろう」

「一等速くて、一等先を走っているのかな?あとからどんどんやって来るのかも知れないよ」

「そんな様子は無いようだが」

ガン・ホーの耳には後続車の気配などひとつも聞こえてこないのでした。あたまをぐるりと回して見ても、自動車競技が行われているような様子はまったくありません。

「一体全体・・・」

しかし突然、当のスポーツ・カーが今まさに走り去っていった方向でなにやら爆発したかのような音が響きました。

「む!」

、ガン・ホーがそのレンズの焦点を遠目に絞って見つめてみれば、まるでなにか爆発したかのような煙がモクモクと立ち上っている光景がテレヴィジョンに映ります。

「大変、事故だよガン・ホー!」

「ああ、行ってみよう」

ガン・ホーは拳を振り上げる勢いよりも強く発動機を動かして、全速力で走り出しました。

 

*                                   *                              *

 

 傍目に近づくまではそれと判らないような窪地の底で、謎の青年はスポーツ・カーの車体の下からごそごそ這い出しました。

ちょっと細工をしただけでエンジンからうっすらと空に広がっていく煙はまさしく開いたボンネットの中身がなにか故障を起こしたように見え、

そのカモフラージュの成果に満足げな表情です。

しかしどんなビック・バンドの楽団でも出し得ないようなパーカッションの轟きと共に接近してくる巨大な姿形にその眉はひそみ――

そうしてにやり、とひとりほくそ笑んで、やって来る者達に向き直りました。

ガン・ホーとタケルが駆けつけて目にしたものは、まさに先刻通り過ぎた銀青色のスポーツ・カーが絵に描いたように立ち往生、傍らの運転手はこれまた絵に描いたように天を仰ぐ、

誰がどう見ても只今故障中といったような光景だったのです。

 

「どうされました?」

「んー、まあ見ての通りさ。ちょいと飛ばしすぎてたら目の前がとんだ穴蔵で飛び出しちまってとんでもなく空吹いた挙げ句にオーバーヒートってところだなあ」

ぬっと突き出したオーバーな長身を相手に、青年はオーバーな身振りで答えます。

「交通事故ではないのですか?」

「いや交通ったってな、君と僕以外は何も交通してないからなあ」

「けがとか、していませんか」

「おう、三人目がいたのかい」

胸の扉を開けて出てきたタケルに向かってちょっとおどけて言いました。

「ご心配いただき恐悦至極」

片膝を居り頭を下げ、まるで大時代的に深々とお辞儀する相手に対して、タケルもついつい丁寧な挨拶をしてしまうのです。

「ご、ごぶじでなによりでした」

つられたかのようにガン・ホーも上体を折り曲げ

「御怪我無く幸いな事で――」

「うひゃあっ!」

危うくタケルを地面に転がり落とすところでした。

「ひ、ひどいよ・・・」

「ああっ!す・・・すまない」

そんな二人を見て青年は文字通りお腹を抱えて大笑いするのでした。

「おもしろいなあ君たちは、オフブロードウェイの地下シアターでスタンダップ・コミック・ショウを演(や)れば大入り満員間違い無しだ。もっとも・・・相当深い地下シアターが必要だろうなぁ」

「ぼくたちそんなことしません」「御怪我がなければ、私たちは先を急ぎますので」

暇乞いを告げる二人を、青年は慌てて引き留めるのです

「いや、いや!僕ぁべつに痛くも痒くもないんだけれどさ、『グレイス』の方がちょっとね。ひとつ手を貸してはくれまいか」

「女性を同伴されていたのですか」「ええっ、その人だいじょうぶですか」

「あんまり大丈夫じゃないね」

「大変だよどうしよう」「お医者様を捜すべきだろうね」

「あーいや」

「で、でもここまで歩いてきたけれど、病院なんてなかったよ」「ではこの先に進んでいくしかないな」

「君たち」

「よし、急ごう!」「うむ」

「ぼくらはちょっと走ってお医者さんを捜してきます!しばらく待っていてくださいね」

「いいや待つんだ、先に容態を知っておかないと却って困ることになるだろう。 一体そのグレイスさんという方はどこがお悪いのですか」

「キャブレターかな」

「なるほどキャブレターですか」「・・・きゃぶれたー!?」

ガン・ホーは至って普通に納得したのですが、タケルはそうもいきません。

「いやなに『グレイス』っていうのはこのクルマのことだからね」

青年は銀青色のスポーツ・カーに手を伸ばし、まるでナイトドレスを纏った女性を扱うかのように優雅に滑らせて言いました

「『流れる星』という意味なのさ」

 言われてみれば流星のようにも思える流麗なスポーツ・カーにすっかりタケルは魅了されてしまいました。人跡もまばらな荒野の只中で、一層見栄えるその姿。

空の下を一直線に流れていきそうな線形のボディが、しかし今はボンネットを大きく開いて止まってしまっているのです。

「ジャッキを噛まそうと思ってたんだけどちょうどいい、手を貸してくれないかな」

「え、ぼく?」

タケルは思わず自分のことを指さしましたが、もっと大きな「手」があることにすぐに気がつきました。

 

*                                   *                              *

 

「よしよ〜し、優しくそっとだぜ。女の子を抱きとめるぐらいにちからいっぱいでソフトタッチだ」

「私は女性の方の扱いに慣れていないのですよ」

ガン・ホーはスポーツ・カーの「グレイス」の両輪に腕を差し込み入れて、まるで納屋の戸板を扱うようにむんずと持ち上げました。

「いやいやどうしてどうして、君ネズミ捕まえるみたいにブラ下げてたじゃないか、あのおっかなそうな戦車乗りをさ」

青年は躊躇なくグレイスの裏側を覗き込んで、まるでなにかを整備するかのように工具を隙間に突っこんでがちゃがちゃ言わせているのです。

無論タケルの目からもガン・ホーからも、本当にただ工具ががちゃがちゃ言ってるだけだとはわかりません。

でも、タケルには不思議に思うことがありました。

「・・・あれ、山田中尉さんのことですか?なんでそんなこと、知ってるの??」

「そういえばあの時のことは戦車隊の方々しか知らない事柄だね。他には誰もいなかった筈だ」

「むう・・・」

と青年は考え込むように車体の奥を覗き込むなり

「ああっしまったっ!」

などといささか棒読み加減な声を張り上げて、ひとをぶん殴れそうなほどに大きなレンチを突然足下に取り落としました。

「だ、大丈夫ですか!」

突発自体に慌てたガン・ホーは自分自身の記憶分野を参照するどころの話ではありません。「グレイス」号の車体を持ち上げていた両腕は、ついその下に在る人を助けようとするので

それは丁度釣り天井が振ってくるかのような思いを、まさしくその人物に抱かせるのに十分な椿事なのです。

「大丈夫だから離すな!絶対に手を離すんじゃない!!」

フロント・アクスルがキッス出来そうなほどに近づいてきた青年の方も、小芝居どころでないほどの大騒ぎになりました。

そんな二人の様子を、タケルはじっと見つめているのです。なにか大切なことを見落としているような、気付かず通り過ぎてしまった曲がり角を見つけに行くような顔で。

そして突然、何事かに気がつきガン・ホーの巨体を見上げました。極めて重大な秘密に、なにか思い当たったかのように。

やがて青年がエンジンの整備――もちろんそれはまったくの出鱈目嘘っぱちだったのですが――を終えた頃合いで、タケルは青年に問いかけました。

 

「あの、どうして・・・その・・・どうしてそんなに普通でいられるんですか」

「へ?」

言われた青年は何が何やら見当も付かぬといった有様です。

「僕のことかい?普通じゃ悪いかな」

「悪くは・・・ないんだけど・・・」

言い出したタケルの方も確たる自信のない、何処か不安を抱えたままに言葉を継いでいくのです。

「ぼくら今までいろんなひとたちに出会ってきたけれど、誰でも最初は驚いていたよ。どんなひとでもまず真っ先に」

タケルは身振りでガン・ホーを指し示し

「この大きさでびっくりして、次に必ず、話しかけられてもっと驚いてる。まるでひとのように口をきくこの・・・」

続く単語を何故かひどく言い辛そうに口にしました。

「『ロボット』に驚くんだ。そんなことにはもうすっかりぼくらは慣れてしまったけれども、やっぱり普通のひとは、びっくりするようなことなので」

「ああ、なるほどね」

青年は得心したように呟きました。

「・・・初めて出会ったのに、どうしてそんなに、普通でいられるの?まるでぼくらのことを最初から知っていたようにさ」

「ガン・ホー君のことなら最初から知っていたからさ」

別段驚くことでもないように、青年はあっさりと答えたものですから、却ってタケルの方が驚いてしまいました。

「どうしてガン・ホーの名前まで知ってるんですか!ぼくたちまだ名乗りもしていないのに・・・」

「むむ、それは確かにおかしなことだが・・・」

言われて見ればその通りとはまさにこのことで、ガン・ホーの機械の眼は青年の正体を推し量るかのように絞られます。

真っ赤なレンズに焦点を合わされた青年はその眼光に臆すことなく「グレイス」号のルーフにもたれ掛かって肩の力を落とし、ちょっと悪戯じみた笑顔でふたりに言いました。

「ふふふ、こう見えて僕は色々なことを知っているんだぜ。君が瀬生タケル君、そっちの大きいのがガン・ホー君というのだろう?

 君たち二人は日本からやって来て、お父さんを助けるためにこの満州でZZZ団のアジトを探しているんだよね」

タケルはまっすぐな瞳をまっすぐに向けて、まっすぐに悪を糾すように言いました。

「なんでそんなことまで!まるでぼくらを――」

「それはだ!」

タケルの台詞を遮って自信満々迎え撃つのは一本指を立てての大音声。カウボーイがテンガロン帽のつばをひょいと持ち上げるような粋な仕草は、

さぞや帽子を被っていれば似合いでしたでしょうが、しかし無帽のままではどうにも締まらないポーズなのです。

 

「成る程判りました。あなたは鉱山にお立ち寄りになったのでしょう」

おまけに頭の上から目線を被せてガン・ホーがそんな言葉を掛けてくるものですから、ますます格好がつきません。

 

「・・・うん、ちょっと前に鉱山街に寄って来たんでね、そこで聞き込んでいたんだ。君達の噂いや、大活躍をさ」

「我々が自分たちの事情を詳細に説明したのは彼処だけですから、それならよくわかります。実に納得のいくことです」

「はっはっは、そうだろうそうだろう」

「なにしろ親切なひとばかりでしたからね」

「はっはっは、それはどうかな」

ガン・ホーはすっかり安心したような様子でしたが、タケルは頬を真っ赤にしてなにやら不機嫌な様子なのです。

「どうしたいきみ機嫌のよろしくない顔しちゃってさぁ、キャンディーでもなめる?」

「い、いらないよっ・・・」

ますます機嫌を悪くした有様で、もう目も合わせずに言いました

「知らないひとからお菓子をもらっちゃいけないって、言われてるもん!」

「はっはっは、こっちは君らのことをよく知ってるよ、いやはやご立派なことで一度お目もじ致したら是非とも応援差し上げたいなと思っていたんだ」

「そっちはぼくらのことをよく知ってるのに、ぼくらは名前も聞いてないよ」

「おおぅ、こいつはとんだ失敬」

青年はさも大失敗を嘆くかのように額に手を当て大空を仰ぎ見、するりと撫でつけたその手を胸元に引きつけ、深々と礼を尽くして二人に向かい、名乗りました。

「始めまして、瀬生建君、ガン・ホー君。僕はJ=スイングという者だ。風来坊をしている」

それは勿論、この『謎の青年』が先に鉱山街で使った――ついでに言えばあっさりと見破られた――偽名とはまた異なる名前だったのですが、そんなことはタケル達にはわかりません。

只今名乗ったJ=スイングという名前が真実かどうかという疑問でさえ、二人には及びも付かないことなのです。むしろもっと別のところに、ひっかかる事はありました。

「ふーらいぼー?」

それは10歳の子供には少しも見当の付かない職業なのです。

「それは一体どんなお仕事なのですか」

“機械人間”ガン・ホーの“水晶頭脳”が参照する記憶分野にも、そんな単語はありません。

J=スイング青年は人が良さそうにもまた悪そうにも思える笑顔を満面に浮かべ、如何にもこれから嘘を吐きますよといった様子で話し出したのですが、やっぱり子供と“機械人間”には

見当も付かない手練手管の口車なのでした。

「自由、そう・・・それは自由!!この青い空の下雲のように風のように、自由気ままに行き来する高潔な精神の持ち主のことさ。風来坊はこの世の誰にも従わず地上の何処にも属さず、

 思いつくままに走り気が向くままに眠る、すばらしい存在だ!こんな素敵な生き方は他にないんだぜ?草叢は我が寝床、星辰は我が天井。

 狭い部屋には住み飽きた、狭い世間にはおさらばだとこう来ちゃう。 誰に命じることも誰かに命じられることもない義務も責任も我が事一つで

 ビーフリー、ビーハッピー、ライフスタイル!」

「ええっと・・・」

J=スイング青年が何をそこまで意気込んでいるのかさっぱりわからないタケルでしたが、ひとつよくわかることがありました。

「お家がない人なんだね」

「君らに言われたかぁないよ」

「その職業は安定した収入を得られるのでしょうか」

「ふはは高潔な精神は実益的で功利的な経済活動の奴隷になることを良しとしないのだ」

「お金もない人なんだ」

「に、似たようなもんじゃないか」

「我々は貴方もお立ち寄りになった鉱山で、いくらかの仕事とささやかな収入を得たのですよ」

「・・・連中が僕にくれたのは拳骨と足蹴ぐらいのもんだよ」

自嘲的な囁きは段々と消え入るような声音になり、どこか空の彼方を見ていた瞳はすっかり地面の穴でも探すよう。しかしそれでもこの風来坊の青年には、たかだか二人分の白眼視など

柳に風が吹いた如く受け流し、暖簾に腕押しされようが糠に釘を打たれようがちっとも心は痛まないのだと、思い直し傾いた気概を取り直し、にこにこ笑顔を作り直していいました。

 

「それでも『自由』はなにものにも増して尊い概念なのですぜ諸君。それは君たちが気付きもしないうちに手元から取りこぼし打ち捨てられてしまうものなのですからなはっはっは。

 行きたいところには何処にでも行き、生きたい姿勢で何時までも生きる。僕は誰の指図も受けずにいられるのさ。そこが君たちとは正反対だ」

「ぼくらだって、誰にも言われずにここまでやって来たんだよ」

「我々の行動は自由な意志に基づいています。そうせよと命じるものがもしあるとすれば」

ガン・ホーはそこで一端言葉を切りました。正しい答えを導き出すにはさほどの時間もかからないのでした。

「それはこころというものでしょう」

「ふむん。成る程、心か」

J=スイング青年は眼を細め口元を掌で覆い隠し、ちょっと悪戯っぽいことを思いついたような微笑みを――決して二人には悟られぬように――浮かべて言いました。

「君たち、タイプライターに興味はあるかい?」

 

*                                   *                              *

 

「タイプライターってなんですか?」

「鍵盤にならんだの文字や数字のキーを叩き、必要な文章や言葉を紙面に印刷する機械のことだよ、タケル」

「そうそうその通り、さすがに君は話が早いね。心に思い描いたいくつもの言葉を、思い描いたままの姿で文章に変える魔法の道具さ」

「そんなの、えんぴつがあればいらないよ?」

さも不思議そうなタケルに向かってJ=スイング青年は指を一本振り立てて、チッ、チッっと綺麗なリズムを舌打ちしながら得々と先生のように話すのです。

「いやいや、『文字は心の窓』と言ってね、世の中にはガラガラヘビのような心根の持ち主がいて、まったく手書きで文章を書かせたものならまっこと気の毒に

 ガラガラヘビがのた打ち回ったような文章しかかけないのさ。そういう類の人間が恋文ひとつ書いたとしても、渡せる相手はガラガラヘビぐらいしか居なさそうなものだけど

 あいにくガラガラヘビは人語を介さないと言うわけだ、さてそんな時タイプライターってのはまさしく万能な魔法の箱で、まるで新聞書籍の如く、誰にでも読める綺麗な文字が打ち出せる」

「『ぼくはガラガラヘビなんです』ってことを、きれいな文字で伝られえるの?」

「バッチリ伝わるさ!」

「ふ〜ん」

タケルは子供ながらにタイプライターの有用性について考えを巡らしているようでした。解答は瞬時に導き出され実に簡潔なものでした。

「でもぼく別にガラガラヘビじゃないから、やっぱりいらないです」

「いやいや、それはあくまでものの例えであってね」

「もし、筆致があまり上手ではない方がいらして、文章による意思の疎通や伝達が難しいというのならば、巧くなるように練習をすれば良いでしょう」

ガン・ホーは多少の性善説に基づいたような推論を交えて言いました。

「ハハン誰でもそう言うんだよな、巧い奴はな。世の中何事もそうそう上手くは行きゃしないってのにねえ」

「でも本当に大事なことなら時間をかけてゆっくりにでも勉強したほうがいいんじゃないのかなあ。かんたんに出来ることなんて無いんだよって、ぼくいろなひとに教えてもらったけど」

「いやいやいや、世の中増水した川っぷちに立つ水車小屋のように毎日働き詰めなやつばかりでね、ちょいと労働時間を削減して自己実現に努めようと思ったときには

 それはもういつだって手遅れなんだ」

「ジコジツゲンって・・・なに、それ?」

「自由の同義語、すなわち手前勝手に生きるってえことだよ。毎日はこれ実戦で、練習時間なんてありゃしない。君らだってお父さんを探すのに『練習』なんてやってらんないだろう?」

「それは・・・そうだけど・・・でも・・・」

J=スイング青年はタケルに二の句も告げさせずに

「それになにより、タイプライターには鉛筆にもペンにも無い、ある画期的な能力が備わっているんだ!」

などと叫んで伸ばした指先を突き立てました。

「画期的な」

「のうりょく?」

それは丁度ふたりの間に刺さるような位置だったので、どちらにも感銘を与えられなかったのですが。

 

「そう、例えその指に鉛筆やペンを持てない者にでも、タイプライターの鍵盤なら打てる!押せる!!思いの届かぬ相手に意思を伝えることが自由自在!!!

 例えば君、タケル君がそこにましますガン・ホー君に言葉を伝えようと思ったらどうするね」

 

ガン・ホーとタケルはしばらく互いに見合わせて、声をそろえて言いました。

 

「話し合えばいいと思います」

 

ひどくバツの悪そうな表情になって青年はぶつぶつと呟きました。

「ああ、そうだね・・・君らそうすりゃいいだけの話だよね。まったく、つまんないところで高性能だな」

「なにか言われましたか」

「いや、いやいやいやいや!ああ、そうだこんなことがある。僕がまだ学生の頃の話だが、友人の一人が動物行動学を研究していてね、言葉の通じない生き物、

 具体的に言うとそれはネコだったんだが、 なんとかネコと会話できないかと日々悩んでいたんだよ。 

 僕は昔から義に厚く信に堅い人間だと自負していたからねえ、すぐに救いの手を伸ばしたものだよ。ただひとこと、適切なアドヴァイスを与えてね。

  『君、このタイプライターを使いたまえ!それでネコの考えなどは一目瞭然だ!!』

 それを聞くなりその友人はネコをネコ掴みしてタイプライターの前に持っていった。おかげでネコの思考が文章化され、そこから目出度く論文が一本できあがりだ。

 動物行動学万歳!人類はまた新たな真実を手に入れました!!な〜んてことが昔あったのさ」

「それは素晴らしいことですね」

「うん、すごいね」

はじめてふたりは目の前の人物に何らかの敬意を覚えたようでした。

「そうだろうそうだろう」

「ねこってなにを考えているだろうね?」

「ああ、それは是非とも知りたいものですね」

しかし敬意を向けられた当人は却って返礼に窮する様子。

「う・・・、あーいやそのまーなんだ、大したことじゃあなかったよ。僕はそいつからアドヴァィス料金として5ドルばかりせしめたんで、それで随分食いつないだんだよはっはっは」

話者自らがあらぬ方に話を導き、その腰を折ろうとしても、妙に盛り上がる聴衆はそれを許しません。

「お天気のこと?それとも食べものの事かなあ」

「猫という動物は決して人に飼い慣らされることのない、極めて自律行動的な動物だと聞いています。さぞや独創的なことを考えているのでしょうね」

「そうねまあ・・・独創的では・・・あったな」

「ほほう」

「ねえねえ、ねこは一体、なにを考えているの?」

左右視線を彷徨わせ、幾許も持って行きようがないと知れると、J=スイング青年は観念したかのように話を続けました。

「そいつの論文を要約するとね、一見するとなにを考えているのかさっぱりわからないネコの思考を、タイプライターを用いて打ちだされた文章を吟味考察思索検討した結果」

「結果?」

「『ネコは何を考えているのかさっぱりわからない』ことがわかったそうなんだ」

「・・・タイプライターのおかげで?」

「タイプライターのおかげだ」

「それが人類の手に入れた新たな真実だと仰るのですか」

「少なくとも、真理ではある」

学問を尊び学究を敬う、それはそれは実に厳かな態度に見えました。

態度だけは。

 

「教授会に論文を提出した直後にそいつは大学からいなくなっちゃったけど、なんでだろうねえはっはっは」

J=スイング青年はからからと笑顔でお話をまとめたのですが、タケルはともかく表情を持たないガン・ホーは尚更のこと、ふたりの聴衆はなんらの感想もその顔に浮かべないのでした。

ただふたりは黙って互いの顔を見合わせ、ひとつの文字もひとつの言葉も交わすことなく意思を疎通し、そしてそのことに何らの重大さも感じさせること無く、

ごくごく普通に振る舞い、言いました。

「結局、猫がなにを考えているのかは」「わからないのですね」

「有り体に言えばそうなるねえ」

タケルとガン・ホーはもう一度顔を見合わせ、もう一度意思を共有するとまさしく阿吽の呼吸で――ガン・ホーのエンジンも吸気排気は行うのです――言いました

「じゃあ、タイプライターなんて」「少しも必要がありませんね」

「おいおい、タイプライターのセールスマンが聞いたら嘆くぜ」

ひどく妙ちきりんな顔でJ=スイング青年は笑ったのですが二人にはなにが面白いのか少しもわからないのです。

 

「ネコの心持ち、それこそがまさに『自由』ということなんだろうさ。誰にも、何者にも束縛されずに生きることだ。住み処も働き先もなくともネコは別段悲しくもあるまいよ。

 タイプライターはそのことを僕らに教えてくれたんだ!どうだいすばらしいお話だろう」

 

「つまりネコは『風来坊』であると、そのように仰りたいのですね」

ガン・ホーは誰でも解っていることを改めて確認するように、面白くもつまらなくもなんともないように答えます。

「えーでも、前に住んでいたところでは」

タケルは以前に暮らしていたロンドンの街並みのことを思い出していました。ほんの少し前なのに、それは遙か彼方の記憶なのでした。

「お隣さんがねこ飼ってたよ。よくねずみをとるはたらきものだって言ってた」

「いや・・・それはまあそうなんだけどね・・・」

J=スイング青年は先刻からずっとにやにや笑いとバツの悪そうな苦笑のふたつの表情を行ったり来たりの繰り返しなのです。

「それでもやっぱりネコは人に飼い慣らされたりはしないもんだ。すばらしく自由で、何者にも束縛されず――」

なだらかなカーヴを描いた愛車「グレイス」にもたれかかって、ほんの少し遠くに目を遣って青年は言いました。

「手前勝手な生き物でもある。誰の指図も受けたりしない。ネコにとっての自己は既に実現されたる概念であり、今更希求するほどのものではないんだ」

紺碧の空には流れる雲がはっきりと見えるのに、地上からは少しも手が届きません。

「君たちは誰の指図も受けずにここまで来たって言ったよね。でもそれは本当に自由なことだったのかな」

今度こそ本当に真面目な顔で真っ直ぐに、このJ=スイングと名乗る人物はふたりを見つめて言いました。

「君たちはまるで訓練された猟犬のようだよ。指図や指示が無かろうが、忠実に飼い主の跡を辿っていくところなんぞ不自由極まりないものなのに、それを少しも苦に思わないのは

 見上げた心がけなのかも知れないけどね」

 

*                                   *                              *

 

「猟犬って、それぼくたちが犬みたいだってこと?いやだな、そんなことないよ」

「ほう、そうかね?イヌというのは実に勤勉で忠誠の高い動物なんだぜ。引っ越し先に別れた飼い主を追ってアメリカ大陸を端から端まで渡ってくるような結構な生き物だよ。

 まったくもって君たちみたいじゃないかと僕かぁ思うけどねえ」

「それはお褒めいただいてると受けとって宜しいのでしょうか」

「いんや、全然。むしろ気の毒だなと考えている」

「そういう事でしたら、私たちは十分言われ慣れているのですよ。ZZZ団の悪行というものは世の中に広まっているようで、これまで多くの方々から同情や労りの言葉をいただきました」

「ああ、それでね・・・」

J=スイング青年はなにかに納得したようでしたが、そこには哀れみのようなものもまた見受けられるのでした。

「一体全体、君らは自分たちのことをどこまでわかっているのかな。本当に、互いの心とかをさ」

「そんなこと、ちゃんとわかってます」

「おやおや、そりゃ結構。タイプライターも使わずに大変便利なことですね」

「だってぼくたち、ねこじゃないもん。ねえ、ガン・ホー」

「ああ、まったくだね」

「成る程確かにネコにもイヌにも見えないけどな」

J=スイング青年はガン・ホーの巨体を見上げて言いました。

「では君は何者なんだろうね?」

「私は“水晶頭脳”によって作動する“機械人間”です。人を助けるために作られたのです」

背筋を伸ばし胸を張るかのような答え、揺るぎない言葉をガン・ホーは返しました。

 

「人を、助ける、か。そりゃまた随分と抽象的で御座いますが、具体的には何をするんだい」

「とっても力持ちなんだよ」

「繊細な作業も可能です」

誇らしげに語る少年と、落ち着いて合いの手を継ぐ“機械人間”、 ふたりの信頼もまた揺るぎないものでした。

 

「ふふふしかしコルセットの締め紐を緩めてレディを天蓋付寝台の中までエスコートすることは出来まい」

冗談めかして言われた言葉は、大抵このふたりには通じないのです。

「てん・・・がい?つきしんだい??」

「それは一体なんですか」

「神聖な場所で執り行われる紳士の嗜みで、極めて繊細な作業の実例さ」

「手助けを求める方がいらっしゃるのであれば修練して学ぶ価値は充分にあると私は思います」

「まあ他人に手助けを頼むような輩もそうそう居ないんだけどね」

うんうんと頷くJ=スイング青年がなにを納得しているのかガン・ホーはよく解っていないようでしたし、タケルに至っては本当になにも解っていないのでした。

 

「しかしどう在っても自由にならないことはあるものでね。例えば君の名前だよ、ガン・ホー君。それは君自身が自由な意志でつけたものではまあ、ないのだろう?」

「ええ、私に名前は人から戴いたものです。自分で決めたわけではありません。よくお判りですね」

「そりゃあまあ普通、ものにそんな名前はつけないもんだ」

全くつまらなそうに発せられた言葉でしたが、ガン・ホーの“心”の奥底に仕舞い込まれていたひとつの謎を浮かび上がらせるに十分な返答でした。

「何故でしょうか?この、私の名前には、何か意味するところがあるのですか」

「ああ勿論、意味のないことなんて世の中にありゃしないからねえ。しかしまあ、ロクでもない名付け親もいたものだな。どこのどいつだまったく」

「私に名前をつけてくれたのは瀬生草蔵博士です。悪く言われるのは心外です」

「ぼくのお父さんだよ!」

「へ?へええええ・・・」

J=スイング青年は大きなロボットと小さな子どもを、今度こそは本当に一切合切の作り事無く本気で驚いて見つめました。やがてその視線はタケルの元に落ち着きます。

そして大変不思議そうにまた無遠慮に、ふたりの思いも寄らぬ事を訊ねました。

 

「君のお父さんは戦争好きだったのかい?」

余りに心外な言葉に遭って、タケルはなにを言われたのだか皆目見当がつかぬように呆然とし、そうしてすぐに自分自身を失うほどの剣幕で目の前の相手に突っかかって行きました。

 

「そ、そんなわけないでしょ!なに言ってんのさ!戦争やりたがってるのはZZZ団の総統で、お父さんは大反対だったから総統は無理にさらっていったんだよ!!」

「むむむ確かにその通り」

と、流石にJ=スイング青年もなにか思い直すことがあるかのよう。しかし続ける言葉は決してその考えを撤回するものではないのでした。

「ではこうは考えられないだろうか。君のお父さんは確かにZZZ団の総統とは意見を違えていた。それは戦争に反対することであるとして、瀬生博士が反対していたのは

 あくまで『ZZZ団の起こす戦争』なのであって、彼自身は『自分自身の為の戦争』をやりたがっていたのではないか・・・とか・・・ねえ?」

噛んで含めて促すような言い方でも、二人の聴衆には少しも同意を得られません。

「お父さんはそんなこと少しも思ってないよ!なんにも知らないのに決めつけないでよ!!」

「全く以て到底賛成できぬお言葉ですね。あなたは何を根拠にそのようなことをお考えになるのでしょうか」

タケルはもう顔を真っ赤にして怒っているのですがガン・ホーの言葉は変わらず平坦なままでした。ただその眼だけは強く赤く、輝いていたのですが。

そしてJ=スイング青年は慌てず騒がず冷静に、まるでこどもたちに足し算や綴り方を教えるかのようにごくごく普通に世の理となる根拠を告げるのでした。

 

「何故って『GUNG−HO!』ってのは合衆国海兵隊員が突撃する時の合図みたいな言葉だからさ。『みなさんこんちわこれから戦争始めますよ』とか、そんな意味だよ。

 マリーン・コープスはどんな浜辺でも岩場でも、突撃するときゃガン・ホー、ガン・ホー、と叫ぶのがならわしで、これはもうハンバーガーとピクルスみたいに切っても切れない伝統だ。

 そんな名前を名乗るのは、まあ普通は物騒な手合いと、そう決まっている。当然、自分の作った物にわざわざそんな名付けをする御仁がさ、それほど博愛主義の平和思想家だとは、

 僕かぁちっとも思わないねぇ」

 

ひょいと肩をすくめて苦笑い。ほんの軽い身振りでも、瀬生タケルにとっては大変に怒りを覚える仕草であって、例え相手が一回りも二回りも年上の大人であっても、

彼の少年が持つ礼儀正しさやその他多くの身につけてきたものを取り去って掴みかかるには、それはもう十分な侮辱ではあったのです。

「そんなことないよ!絶対にあるもんか!!」

背高なJ=スイング青年の胸元に届かぬ乍らも必死に手を伸ばし、怒りと悲しみがない交ぜになったその様子は、しかしひどく年相応な、子どもらしい行為ではあったのです。

暴れるタケルを見下ろしながら、青年はそれを無理に引きはがしたり言葉を荒げたりせず、やはり落ち着いて話し続けました

「――でも、そうなんだよ。彼が戦車と互角に渡り合い、ZZZ団の戦争機械に一歩も引けを取らない強力なマシーンだってことは君も充分承知しているだろう。

 そのような存在にそんな名前をつけておいて、それでは世界平和もなにもあったもんじゃないよ。僕は瀬生博士という人を全然知らないのだけれども、 これじゃとんだ大嘘吐きか、

 さもなきゃ物知らずの大馬鹿だ。君の・・・君のお父さんはさ」

「知らないんだったら勝手なことをいうな!」

「君らだって、自分たちのことを大して解っていないだろう?」

少年の猛る身体を優しく引き離して、J=スイング青年は言いました。

「だからさ、自分たちが『自由』に決めてきたと思っている物事は本当に『自由』に生まれてきたものなのかな。どこかの誰かの思惑に、知らずに乗せられて居るんじゃないのかね。

 例えばそう、君たちがここ満州の地にやって来たのは、来ざるを得なかったのだろうけれどもやっぱりね」

背の高さも面持ちもまるで異なる二人連れを、等分に見渡して言われた言葉は、それはどこか突き放したようなものでしたが、少なからずも憐憫を含んではいたのでした。

「結局はZZZ団総統の手玉に取られてるってことなんじゃあないのかなあ、君たちの『心』がさ」

無言のまま、なにも言い返せないで居るタケルの表情には激昂する気持ちが雄弁に表れていましたが、

ガン・ホーはその機械の容貌に少しの心根も見せないままでJ=スイング青年に重ねて問いました。

「私の名前が戦争用語だということは事実なのですか」

「真っ向至極に本当さ。嘘だと思うなら『我こそはGUNG-HOなり』とマンハッタンで自己紹介でもすれば良い。警察に州兵にきっと誰もが大歓迎だろうぜ」

赤い眼の輝きは少しも変わらず、運転し続けられる発動機は回転数を少しも変えず、落ち着き払ったガン・ホーの様子は少しも変わりがありません。

しかし微動だにしないガン・ホーを見上げてタケルは心配そうに言いました。

「・・・もう行こうよガン・ホー。こんな人の話を聞いていたらだめだよ」

「あなたの仰っていることは確かに理屈が通っていると私は思います。私たちはそれほど自由な選択肢を得ている訳でもないですし、あらゆる全ての行動を望みのままに行える訳でも

 ありません。どちらが自由かと問われれば、それは確かに猫の方が自由でしょう」

「ほう、ほう、流石は論理的なお言葉だ」

「しかし、私は自分の意志や行動をそのような一方向的な論理だけに束縛されない程度には自由で在りたいと望みます」

「望み、希望や願望か。機械の割りには夢のようなことを仰いますな、君は」

「それは私のこころに付随する機能なのですよ」

「そりゃまた結構、随分と前向きなお方ですねえ」

「私は人に似せて作られているので、前向きに動くように出来ているのです」

J=スイング青年は石礫でもぶっつけられたようにまばたきして、それからひどく楽しそうに笑い出しました。

 

*                                   *                              *

 

「私たちは先を急ぎ前に向かわねばなりません、お話は尽きぬ事と思いますが失礼いたします」

「あー、はいはい。邪魔して悪かったねガン・ホー君、いや思っていたより楽しいヤツだな君は」

笑いの止まらぬJ=スイング青年は軽く片手を挙げもう片方で必死に笑みを押し隠して、いささか演技過剰気味に別れを告げました。

ガン・ホーを見上げ、J=スイングを見つめ、それからやっぱり俯いてなにも言わずに居たタケルは、しかし黙りこくってガン・ホーの手のひらに乗り、

そのまま高みに持ち上げられて、何度も何度も躊躇して、そうしてようやく地上の青年に向かって大きな声で呼びかけました。

「J=スイングさん!」

精一杯、力を込めたその言葉は、先程まで溜まっていた怒りや悲しみを吹き飛ばして、意志だけを伝えるように遠く高く、響きます。

「おおぅ、なんだいタケル君」

「ぼくは・・・ぼくにはあなたの言ってたことがよくわからないけど、それでも・・・はっきりわかったことがあります」

「へえ、是非ともお聞かせ願いたいね!」

「知らない人から聞いた正解より、悩んでるともだちといっしょに見つける答えの方が、きっと大事なんだとぼくは思うんだ!だから、それを教えてくれて・・・」

「教えてくれて?」

「ありがとう!!」

タケルはこころのまわりに絡み付いていたなにかを振り払うかのように、満面の笑みを浮かべてJ=スイング青年に大きく手を振りました。

それでも、ガン・ホーの胸の操縦席に収まったときには矢張り不安な心持ちが浮かんでしまうのです。

「ねえ、ガン・ホー、あんな人の言ってたことをあんまり気にしちゃいけないよ?だってずうっとウソばっかり言ってるような人だったじゃないか・・・」

ガン・ホーはしばらく答えを返さずに、なにか考え込んだ後でゆっくりと言いました。

「有難う、タケル。私も君と一緒に答えを探したいと思うよ。ただ、もしも見つけ出した答えが私たちにとって善き事では無かったら、その時にはどうするべきなのだろう。

 果たして真実や真理といったものは、それ自体が善いことなんだろうかね。もし、『不都合な真実』とでも言うようなものが在ったとして、私たちは不都合だからと言って

 それを否定することが出来るのだろうか。あの人物が言った通りに、もしも私が戦争をするために、作られたのだとしたら・・・」

「ぼくはそんなことちっとも思わないよ。心配しなくても大丈夫だよ、ガン・ホー」

「わからない・・・わからないのだ・・・」

虚ろな筐体の中に、深く静かに悩みは響き、見えない波紋のように機械のすみずみにまで拡がって行くかのよう。でもそこに、確たる自信をもって少年は言うのでした。

 

「わからなければわからないんでいいんじゃないかな、何もかもが全部わかる人なんていないんだから。だからみんな何かを探しているんだろうと、

 そこで見つかるもの、信じることが出来るものが答えなんだと、ぼくはそう思うよ」

 

そのときそこに流れていた言葉だけでは、タケルの浮かべていた表情は伝わりません。ただ“人間機械”の操縦席に在るいくつかの硝子面だけには、

その喜びとも悲しみとも付かない目尻や口元が写り込んでいたのでした。

 

*                                   *                              *

 

「いやいや、実に有意義なひとときだったよ」

J=スイング青年は誰に聞かせる宛もなく、ただ去りゆく巨体を眺めて一人言いました。

「まあ少しやりすぎた・・・かな。ははは」

バツの悪そうな照れくさそうな、そんな苦笑いも何処の誰かが見ているわけでもありません。

ただ、その足下になにか、輝く小さな物がひとつ、暮れ始めた日の光に輝き、その瞳に映りました。

「んー、こりゃ、なんだ?」

自分には見覚えのない何か。他人が持つべきもの。

「おおい、忘れもんだぜ!」

などと呼びかけてみても、肝心の落とし主たちは彼自身が散々遣り込めてしまったものですから、少しも振り向くことがなく、悠然と立ち去っていくのです。

先刻興奮して掴みかかってきたタケルの、胸元からかこぼれ落ちた物は、無造作に摘み上げられ検分に掛けられました。

ピカピカに光るそれは何も知らない者には何ともわからないものでしたが、わかる人間にははっきりとわかるものでした。

 

「な・・・なんでこんなものを、あんな子どもが、持っているんだ・・・」

目も口もまん丸く、アルファベットのOの字のように開いて、見出されたもの。ほんの小さな、胸につけるバッジ。

長四角な真鍮を座金にし、青い地の上に真白い五つの星が刺繍されたそれは、一見すればただのアクセサリーと思えても、それを知る者には判然とした価値をもつ証となるもの。

J=スイング青年は掌の中のバッジをまじまじと見つめ、そうして去り行く“機械人間”と、その中に座しているだろう少年とを遠くに見つめました。

「こりゃいかん、返さなくっちゃいけないね。なにしろこいつは・・・ちょいと重すぎるからな」

そのとき瞳に浮かんでいた光は、誰の目にも留まりません。どの硝子にも鏡にも少しも映りません。そして彼自身にもまた、決して見えはしないのでした。

 

*                                   *                              *

 

「英雄なんてそうそう簡単に成れるものでもあるまいになあ」

流線型のスポーツ・カー、グレイス号のドアノブに手を掛ければ、サイドウインドウの板ガラスには抜けるほどに青い空と、風向くままに自由な雲とが綺麗に映り込んでいるのです。

「・・・まあ風来坊というものも、そう簡単に成れはしないんだけどね」

(風来坊というものも、そう簡単に成れはしない)

ガラスに映った無機的な姿は、無機的なまま答えを返しました。

 

「J=スイング」と名乗っていた人物は、世界中どこでも見かけないような種類の「スポーツ・カー」の運転席に身を沈めると、ダッシュボードを開いて軍隊の通信兵が使うような大型の

ヘッドフォンを取り出しました。隠された位置にある秘密のボタンを押せば、車体からは蝙蝠傘の骨組みを逆さに据えたような無線アンテナが音もなく伸び上がります。

やがてラジオのダイヤルが正しい周波数に合わせると赤や緑の電球が色とりどりに輝き始め、謎の青年は何処かの誰かに向かって話し始めました。

「・・・やあ、僕ですよ僕。ああ、いえいえ違いますって、嫌だなあはっはっは。今は『J=スイング』ですよ」

タケルが落として行ってしまったそのバッジ、アメリカ合衆国議会名誉勲章略綬を軽く指先で弄くりながら、ちょっとばかり楽しそうな顔をしてその青年は言いました。

 

「例のロボットと、接触しましたよ」

 

つづく

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