「上海一片

 


 

 バーと言えば酒を提供する場所というのが一般社会の通念であるが「ホテルのバー」と冠がつけばその状況はいささか異なるものとなる。
1940年、上海。共同租界・英国地域の夜の王城として知られるキャセイ・ホテルのバー・ラウンジは、
年間を通じて解禁される猟場の呈を成し、夜毎そこには獲物を求める狩人と、狩人を欲する獲物達とが、
集いつられて舞い踊る。

 今宵、すべての視線の降り注ぐ先は、カウンター端の暗闇にひとり腰掛ける東洋の美女。
越南風のアオザイは夜の闇に染め上げたように蒼く黒く、中華様式に刺繍された金糸の花弁が胸元を飾る。
艶やかな黒髪は結い上げもせず惜しみなく背に流れ、時折紅玉を飾った手元は物憂げにそれを掻き上げる
その場に居合わせた多くの女達が、扇情的な切れ込みのドレスから意図的に覗かせた肌で己の色香を誇示するのに対し、
陰に坐したその女は、露出ではなくたたずまいで、空気を支配していた。

 あからさまにこぼれる脚線も、危険なまでに深い谷間も、グラスを弄ぶ指先ひとつに敵わない。
狩人の羨望と獲物の嫉妬、いくつもの視線を一身に受けながら、女はひとりで杯を傾ける。
蛮勇をめかし込んだ匹夫が巧言を弄して近づこうとも、女の瞳の一別は錐の様に鋭く強く、無言のままに男を刺す。

 ――この女は獲物ではない。

瞳を覗き込んだディレッタント達は一様に皆そう悟った。

 ――この女は、龍だ。

1940年、想海(シャンハイ)。暗号名“緋龍”こと大道寺麗華は指定された場所で指定された人物を待ち構えていた。

 後になって、どのような男が彼女と共に立ち去ったかを誰も憶えていなかった。
人は影を見ることが出来るが、影を知ることは出来ない。
何れにせよその男は影のようにその場に現れ、影のようになにかを囁き、影のように連れだって出ていった。

「ながらへば」
「――うしとみしよぞ」

それが指定された符丁だった。

*                *             *

「まず言っておくけれども、私はあんたを信用しない。どれほどの腕前だろうと、他人は信用しないことにしてる」

豪勢なスイートルームの豪勢な寝台に無造作に腰を下ろすと、“D機関”が派遣した男に麗華は告げた。

「それで結構だ、緋龍(ひりゅう)。任務に差し支えはない」

 D機関の男は八州(やしま)人らしからぬ長身をトレンチコートに預けたまま、感情を交えぬ声で答えた。
目元はハンチングの陰に隠れ、手元はコートのポケットに隠され、個性は灰色に塗り込まれている。

「で、そっちの名前は?組まされる相手の名も知らないのは御免よ」
「名前はない。任務に差し支えはない」

 麗華は錐の目で相手を見つめた。

「はっ、名無しってわけ。いい気なモンね。でもこの街では名無しは長生きできないわよ」
「そうかな」
「この街の人間はね、みんな何かを背負ってる。誰も彼もが重荷をね。自分の足で、自分の名前をね。
 だからそこに突然“名無し”なんて人間が現れたら、皆真実に気づいてしまう」
「真実?」
「名前なんて意味はないってこと・・・この街にいる人間は結局、誰も彼も名無しなのよ。私は“緋龍(フェイロン)”、
 あんたの名前は何」

「・・・“銃手(ガナー)”と、そう呼んでくれればいい。それで結構だ」
「それでいいわ。よろしく、ガナー」

 お互い握手はしなかった。
 
「手筈通り、得物は用意してあるわ」
 麗華は寝台の下から細長いケースを抜き出すと胸元に潜めていた鍵を取りだしてそれを開いた。
中には二種類の小火器が収められていた。

 ひとつは消音器を取り付けたブローニングM1910オートマティック。一切の無駄を省いたシンプルな外形はコンパクトに纏められ
一分の隙もない造りは実用性だけを追求した工具を思わせる。そしてもうひとつは、奇妙な小銃だった。
 全長は騎兵(カービン)銃のような小ぶりな大きさにまとめられ、マガジンはゆるやかなカーブを描く外付弾倉。
銃床は通常の小銃がただ手を添える為だけの直線銃床であるのに対し、この銃には直角に保持する為のバーチカル・グリップが突きだしている。
一見して通常の火器ではない。

「“アブトマット”か。珍品だな」
「扱えるかしら」
「当たり前のことを聞くな」

 ガナーはケースの中の“アブトマット”に手を伸ばした。銃のほぼ中央位置には銃身と平行して小型の円筒が取り付けられている。


「スコープは1.5倍。今回の距離ならばそれで十分でしょう」
「ZF41は狙撃用の照準眼鏡(しょうじゅんがんきょう)としては最低の部類に入る。
 独国陸軍が何故こんな物を正式採用しているのか正直な所理解に苦しむ」

そのスコープは精密狙撃に用いるには余りに小さく、接合位置からはレンズと射手の目の焦点距離が理不尽なまでに離れすぎていた。

「中途半端な代物なら必要ないってクチかしら」
「そういう人間もいるだろうがな」

 ガナーは麗華を見つめて答えた。

「中途半端な代物でも任務達成の支援になるならば俺はそれを使う」
「言ってくれるわね」
「別にあんたのことじゃない」

 表情のない顔からは、ガナーの思推は伺い知れない。

「まあ、いいわ。マウントは登斗(のぼりと)のオリジナル、完全に調整済みよ」
「試射の出来る場所に案内してくれ」
「信用しないつもり?」
「試射の出来る場所に、案内してくれ」

 麗華はわずかに笑みをこぼした。

「合格ね、ガナー」

*                *             *

「想海は魔都というが本当だな」

 それがガナーの感想だった。その射撃場は打ち放しのコンクリートで造られ、所々に修繕の後の継ぎ接ぎと、
隠しきれないいくつもの弾痕、そして落ちることのないどす黒い滲みに覆い尽くされていた。
床には杭が打たれ、そこからは鉄輪の付いた鎖が伸びている。

「階上(うえ)は新聞社で一日中輪転機が回ってる。銃声が地上に漏れる心配はないわ」
「佛国租界の中心部にこんな場所があるとはな」
「ここには・・・犬を撃つ人間が来るのよ。紙切れの目標じゃあ満足できなくなった人間がね」
「犬があんなところに跡を残すものなのか」

ガナーは顎で壁を指し示した。人間の背丈ほどの高さに、人間の頭ほどの跡が黒々と残されていた。

「翼の生えた犬ならばね」
「・・・成る程」

 弾倉を差し込むと、遊底を引いて初弾を装填する。

「標的は使わないの」
「必要ない」

 独特のグリップで銃を保持し、頬を寄せるとスコープ内の照準線に、その滲みが捉えられた。
呼吸を止め、引き金を絞ると最新の弾痕はその中心に穿たれる。

「狙った位置に当たればそれでいい」
「御感想は?」
「まだわからん」

 ガナーは次の位置に狙いを定めた。

「斉射を試す。緋龍、耳を塞いでおけ」

 射撃場に銃声は鳴り止まず、安物のコンクリートはグズグズと崩れ落ちる。
空薬莢と破片とがいくつも転がり落ちた頃合い、麗華は懐中時計を確かめて告げた。

「時間よ、ガナー。私は仕掛けに行く。あとは予定通りに頼むわ」
「ああ」
「観測者(スポッター)は無し、逃走ルートは自弁。但し絶対に北四川路を越えて八州租界には逃げ込まないこと」
「承知している。俺は彼処では顔を知られているのでね、どのみちそちらに行けはせん。そうだ緋龍、ひとつ質問がある」
「なにかしら」
「任務の段階で、あんたは俺に命を預けることになる」
「そうね」
「信用できない人間に、命を預けられるものなのか?」

「私は自分を信じているから」
龍のように尊大に、龍のように美しく、SCARLET・DRAGONは応えた。

*                *             *

 真夜中にわずかに届かぬ時刻。闇の中に光り輝く混沌、想海の街は蠢き続ける。あるものは人工の明かりを闊歩し、
あるものは暗闇の影に籠もり、数千年の時を経て造り上げられた形のある幻想のさなかに人々は移ろい、営み、そして倒れていく。
華国の東端、長江口に吐き出され南海辺にうち寄せられる汚泥の街。数多の国々から数多の人々が集う場所。
商人と文人、移民と流民、政治家と革命家、軍人と工作員。

人間が幸福をその手に掴む可能性は、腐るほどに溢れていた。

 そのメイン・ストリート、南京路に建つ四王飯店。贅を尽くし豪奢を成す四海竜王の拵えを睥睨するかのように、ひとりの男が
大股で門をくぐる。黒い夜会服と対照的な白亜の顔に細い眉は能面か文楽か。八州の血は色濃く見えても、ひとらしさは感じられない。
斬れ長の目はむしろ爬虫類に似た冷たい輝きを見せる。月に照らされ、額に一条の傷跡が映えた。


「これはこれは宮路少佐、お待ち申し上げておりました。ようこそおいで下さいました」

 支配人自ら客を出迎え、深々と頭を垂れた。

「張大人は?」
「すでにお待ちかねです」

 大広間はたったひとつのテーブルに独占された観があった。舞踏会でも開けよう広さに、置かれた卓は唯中央のひとつのみ。
その円卓を柱のように取り囲む黒服の男達は皆武装したボディ・ガードと見え、ぐるりと美姫を侍らせた席には
黒檀の塑像のような小柄の老人が座っていた。

 張行徳。想海を動かす喫水線下の巨大機構、すなわち黒社会の雄。秘密結社「赤家」の頭目を半世紀に渡って勤める
なかば伝説的な老人である。「赤家」は想海を拠点に脈々と生き続ける血管のような組織であるが、近年は衰えの色を隠せず
「紫衣団」ら他の組織に利権財源を奪われつつあった。

「宮路少佐、こうしてお会いできて光栄ですな」
「こちらこそ直にお目通りかないまして歓喜の至りです、大人。伝統ある赤家の筆頭にわざわざ席を設けていただけるとは」
「いえいえ、想海のどこにいても貴官の噂は聞こえてきますよ。八州領事館に傑物ひとり、とね」

 巨大都市想海はしばしば密談と謀議によってその行く先を決定する。山海の珍味が振るわれて後、両者は談に花を咲かせた。

「しかし、少佐の剛胆さには恐れ入る。儂はつまらない商人で軍隊のことは存じ上げぬのですが、
 自国の兵士に阿片を供給しようなどとよくも思いつくものだ」
「わたしは兵卒に同情しているのですよ。故郷を遠く離れて異国にあり、明日をも知れぬ定めの兵士達にね。
 華国派遣軍、少しばかりは夢を見せても良いでしょう。あなた方は河北に市場を開き、わたしはいくばくかの仲介料を戴く。
 誰一人、困りはしませんよ」
「将軍たちは黙っておりますまい。どんな組織であれ目下の――、失礼。上位に座す者は己が統率に属さぬ者を快くは思わぬでしょう。
 左遷、いや粛清される恐れはないのですか、少佐。儂はこの通りの臆病者で身内の警護がないと食事にも出掛けられぬ有様。なのに貴官は
 供も連れずにたった一人、どこにでも乗り込んでこられる。勇猛尚武、なかなか真似のできる事ではありません」

「なに、自分の身を守る術ぐらいは心得ていますよ」

 そう言うともうその右手には拳銃が握られていた。抜く手も見せず、円卓の向こうの張行徳に狙いを定めて。
マウザー・モデルHSc。トリガー・ガードはマズルと一体化して抜き打ちの容易なラインを形成し、
8発の7.65ミリ拳銃弾が装填されたマガジンには射撃時の安定を保証するクリップエンドが装備されている。
何人ものベテラン・シューターの手を通して完成されたコンパクト・オートマチックの集大成。

周囲の護衛達が気色ばむ中、張はほほ、と笑みをこぼした。

「“神速”というものを初めて見ましたよ。見事な腕前だ」
「近衛師団にいたころ、身に付けたことのひとつでしてね。どんな人間よりも信が置ける。それにまだ八州にはツテがありましてね。
 人品卑しからぬ方々と交わりを持っているとそれなりに自由は効くのです。
 東京はわたしを放逐したつもりでしょうが、ここ想海に来てつくづく思うのですよ。わたしは解放されたのだと」


 マウザーHScを懐中に戻すと宮路はポマードで固めた生え際、額に残る傷跡に手をやった。伸ばした手元に隠されその目の色は伺えない。

「いつかは戻る、その日の為に今は力を蓄えるとき――この事業もその一環です」
「ふふ、商売人らしい目をなさる。良い取引を願いますよ」
「阿片と引き替えに擲弾筒と機関短銃、安いものです。とはいえ大人、お手柔らかに願いますよ。
 我軍を腑抜けにされても困ります」
「ご心配になりますな。『活かさず殺さず』が商売の秘訣、軍隊とは違います」
「ははは、それもそうですな」

二人は屈託のない笑みを浮かべた。

(相変わらずね、宮路裄守)

その場に居合わせた人間の中で唯一人、大道寺麗華だけは神速の軌跡を捉えていた。

(大言壮語に見合った実力。けれど、いつまでその自信が続くかしら)

*                *             *


「さて少佐、本日特別に用意した逸品を是非味わって戴きましょう」

 張が手を打ち鳴らすと、繻子のカーテンを開いてステンレス・スチールの台車が押されて現れた。
その上には北宋の代か風格ある酒器が一揃い並べられていた。

「・・・大人、それは?」
「皇家の秘蔵酒、仔臓甘酒ですよ。燭漢の尚烈帝が好んで愛飲したものです。精に効き長命に良し、後代では虎の肝を漬け込んだのですが
 今宵は伝承通り妊婦の胎内より取りだした嬰児のそれを使っております」

ほほ、と笑顔を見せる。周囲の女達も、誰一人として怯えは示さない。

「食材の目利きは趣味のひとつでしてな、儂が自ら選びました」

礼節を保って耳を傾けていた宮路は、しかし白鑞の顔に不安を浮かべた。

「おや、どうなされました少佐。まさか気分を害したとは言いますまい」
「いや、そうではありません大人。実を申せば人肝を食した経験もあります。ですが残念ながら、わたしは酒を飲まないのです」
「ああ、なんと勿体ないことを。それでは人の世の悦楽を、半分以上打ち捨てるようなものですぞ」
「誠に申し訳ありません。しかしこれも“神速”を保つ故のこと。代価を払わねば、代償は得られないのです」
「ううむ、それでは仕方がありません。これはもう下げてしまいましょう」
「いえ、お待ちを・・・飲まずとも楽しみ方は存じております」
「はて、それはまた何を」
「女を一人、あてがってはいただけませぬか」
「ほほ、なにやら楽しそうな趣向のようで。宜しい、どれでも貴官の好みに合う者を選びなされ」

 宮路裄守は爬虫類のような目を心持ち開き、周囲に侍る女達を見回した。
張行徳の隣席に座る美姫は、真紅のチャイナドレスからこぼれ落ちそうに豊満な体を、これみよがしに誇示する。
しかし宮路はそれには目もくれず、端席に腰掛けるまだあどけなさの残る女を指でさし示した。

「そこのお前、名はなんと言う」

 指名された女は頬を赤らめ、驚きと恥じらいに染まって言葉もない。

「客人の前で失礼をするな、名乗りなさい」

 張に促されてか細い声で、ようやく声を絞り出す。

「密花(ミィファ)と、もうします・・・」
「密花か、よい名だな。こっちにおいで」

宮路は開けておいた両隣の席の内、利き腕でない左側を引いた。

「はい・・・」

立ち上がった密花は幼い面影を残す顔とは裏腹に、薄桃色のチャイナドレスの下に十分成熟した女の躰を持っていた。

「お目が高いですな少佐。その密花はまだこの店ではまだ中堅の人気といったところだが、育て上げれば高名得ること間違いなし。
 いわば先物買いという訳で」
「いえいえ大人、佛国では『葡萄酒は三番目に勧められるものを選べ』と言いますからな。先達の格言に従ったまでのこと」

宮路の左手は蜘蛛のように動き、うつむく密花の細いおとがいをつまみあげた。

「顔を上げなさい」
「はい・・・」

人形のような男のなすがまま、人形のように面をあげる。

「お前、大陸の者ではないな」

宮路は八州の言葉で訊ねた。

「肌を見れば解る。何処の生まれだね」
「神戸の・・・どうかそれ以上はお訊ねになさらぬよう・・・」
「ふふ、今日日そんな話はいくらでも転がっている。それはゆっくりあとで聞こう」

「大人、この女を自由に扱って構いませぬか」
「無論ですとも、お好きなように」
「では密花、わたしに酒を注いでおくれ」

 密花は酒器を傾け杯を満たした。琥珀色の液体がどろりと広がり、濃厚な香が立ちのぼる。
宮路は左手に杯を取るとその香気を存分に味わい、能面のような顔ににんまりと笑顔を浮かべた。冷たい瞳がわずかに細められる。

「衿をあけなさい」
「は、はぃ・・・」

 言葉に従い、女は衣服の衿元を開いた。恥じらいに頬は染まり、きめ細かな肌が顕わにされる。
わずかに、谷間が覗いた。

「目を閉じろ。私がよいと言うまで開けてはならん」

 女の唇に、杯がゆっくりとよせられる。


「本当は少し傷をつけておいた後の方が良いのだがね」
「あ、あぁ・・・」
 
 密花は怯えたように甘えるように、猫のような声を出す。
杯は傾けられても琥珀色の酒は閉じた唇には注がれず、喉元からゆるやかに流れ落ちた。薄桃色の絹を浸し、皮膚の上を転がり、
体温を奪って深い谷間、水月を通り抜け、さらにその下へ――
宮路裄守の右腕はその跡をなぞり、酒精の気と相まって女を紅く染め上げる。

「うぅっ、くふぅっ・・・」

 内股をひとすじ、するりと泉水がこぼれた。

「こうして香に浸しておけば、夜が楽しい。寝所ではもっと良い顔を見せておくれ、密花。さぁ目を開きなさい」

 密花はもう顔を上げもせず、うつむいたまま己の肢体を見つめていた。

「いやいや眼服でしたぞ少佐。今度は儂も真似てみようと言いたいが、しかし勿体のないことをなさる」
「そう、八州ではこのように言います。『ぜいたくは素敵だ』とね、大人」

 能面のような顔に戻り、宮路は眉ひとつ動かさない。

「ほほ、どうやら少佐は素敵な贅沢を見つけられたようですな。ふむ、今宵はそろそろ散会といたしましょう。
 密花をご所望ならばどうぞお連れ下さい」
「ふふ、この女もどりませぬぞ」
「ご随意になされませ。その前に、涼果を」

  にこやかな笑みのままに手を打ち鳴らす。しかし、それをうち消すように爆音が轟いた。
繻子のカーテンを引き裂いて大広間に飛び込んだ黒い影。V型2気筒、1200ccの鋼鉄の心臓をもつモーターバイク。

 美国の荒馬、ハーレー・ダビッドソンの血統に連なる八州国産自動二輪、軍用にも供されるその名は――「陸王」。
黒のレザージャケットとヘルメットに身を包んだバイカーはゴーグルとスカーフでその顔を覆い隠し、後輪をスリップさせて制動をかけると
フロントフォークに取り付けられたライフル・スカバード(小銃鞘)から、無造作に襲撃火器を引き抜いた。

*                *             *


「きゃああああああっ!」
女達が悲鳴を上げ、

「手前ッ!」
ボディ・ガードが懐中に手を伸ばす。

 そして地獄が始まった。


*                *             *

 “アブトマット”あるいは設計者の名から“フェデロフM1916”と呼ばれる歩兵小銃は第一次大戦下の帝政ロシアで開発された小火器である。
本銃の特色は分隊支援火器に頼ることなく一人一人の歩兵に制圧射撃能力を付与させる点にある。
横隊による一斉射撃が過去の遺物と化し、重機関銃によって防護された塹壕線に散兵隊形で突撃する歩兵にとって、
ボルトアクションライフルの射撃速度は遅鈍に過ぎた。単射による精密狙撃ではなく連射による制圧射撃。それを叶えるために
拳銃弾を使用する全自動火器として近接戦闘用に開発された銃がドイツ陸軍の用いた“マシーネン・ピストーレ”すなわち“機関短銃”であるが
“アブトマット”は更に強力な小銃弾を発射し、遠距離射撃も可能な“自動小銃”である。
 20世紀初頭、多くの銃器設計者が取り組み、いくつもの試作品が造られた自動小銃。それらのほとんどが失敗に終わった理由は
強力な破壊力を伴う小銃弾を連続射撃した場合に必ず起きる問題、「反動」に根ざしていた。
機関部に加わる応力、安定しない弾道線。排莢・再装填のみを自動で行うセミオートマティックライフルですらままならぬこの問題を、
フェデロフは独創的な方法で解決した。当時深刻な小銃不足に悩むロシアが同盟国イギリス経由で大量に輸入していた準正式兵器、
日本帝国製三十年式及び三八式歩兵銃用の6.5ミリ実包を使用したのである。
小柄な東洋人の体格に合わせて製造された弾丸は、スラブ人が通常の小銃弾薬として使用するには威力不足を呈したが、
中程度の交戦距離で連続射撃を行う為には最適の「弱装弾」として完全に機能した。
その後勃発した革命と内戦、社会主義政権下で発達した重工業社会の中、ソビエト連邦地上軍は歩兵の基幹武装に旧式のモシン・ナガン小銃と
PPSh機関短銃を選択し“アブトマット”は小火器の歴史から姿を消した。しかしながらこのコンセプトの銃器は
後に第二次大戦下のナチス・ドイツで“StuG44”として結実し、以後全世界で歩兵用基幹武装の潮流となった。

 精密狙撃能力と制圧射撃能力を重ね持つ歩兵小銃、現代ではこのカテゴリーに属する銃器は“アサルトライフル”と呼称される。
“アブトマット・カラシニコヴァ47”すなわち“AK47”は20世紀を代表するアサルトライフルである。

*                *             *

 ガナーは“アブトマット”の銃尾を肩付けすると初弾から全自動で射撃を開始した。D機関が用意した弾薬は十一年式軽機関銃用の弱装弾。
銃床部分のバーチカル・グリップと相まって連射時のバレル・コントロールに絶大な威力を発揮する。
逃げまどう女達、身を隠す女達、立ち尽くす女達の中でひとりまたひとりとボディ・ガードが倒れていく。
張行徳もまたその血潮の海に姿を消し、そしてZF41スコープの照準線に

 驚愕の表情を凍り付かせた宮路裄守が捉えられた。

傍らにはすがりついた密花。厭も応も無く男にむしゃぶりついたその手は宮路の背中に伸ばされ――

マウザーHScを握った利き腕を、蛇身のように絡め捕らえていた。

宮路は密花の目を覗き込んだ。それは嘗て母国で彼を処断した者達と同じ瞳を宿していた。

 ――この女は。

「だい、どう・・・じ」

 亜音速で飛翔する弾丸を避わすことは常人に叶えられる業ではなく、神速の宮路裄守が秘めた野望は、自らの祖国が製造した弾丸によって
床中に撒き散らされた。ここは想海、いくつもの夢が途絶える街――

「張大人っ!」
「貴様何者だっ!!」

 騒ぎを聞きつけた護衛達が戸口から飛び込んでくる。しかしその者達にも弾雨は平等に降り注ぎ、次々に横たわる屍を越えて
ガナーは陸王のスロットルを開き、四王飯店から逃走した。誰一人としてその銃に、狙撃用照準眼鏡が取り付けられていたと気づかれることもなく。

 南京路上に排気音の雄叫びを上げ、夜を駆け抜ける鉄馬。黒塗りのセダンが幾重にもその後を追い、想海の街は眠らない。
嗚咽と悲鳴が残る大広間、大道寺麗華は硝煙の渦中に一人立ち上がる。

 炎すら色褪せる死の緋色を身に纏って。

*                *             *

 一夜明けて、未だ朝ぼらけの想海北站駅。珍しく朝靄のかかった駅舎には人影もまばらに、疲れきった顔の者達が一番列車を待ち受ける。
ガナーは黒革の旅行鞄を下げて、プラットホームを歩いていた。傍目には官吏かあるいは旅行者か、早朝に街を出る者とて数少ない想海、
ましてや見知った者と不如意に出会おうことも希。

「あらガナー、生きてたのね」
「任務は既に完了した。何の用だ、緋龍」

 プラットホームのベンチには、黒貂の外套を羽織った女が居た。

「せめてひと目、お別れの挨拶を・・・なんてね、あんた結構な腕前じゃないの。街中、噂で持ちきりよ。
 『イキのいいチンピラが、赤家の頭目に殴り込み。度胸は一流射撃は二流、肝心要を撃ち漏らす』ってね。
 張行徳は助かったそうよ」
「それがどうした」

 ガナーは表情のないままに答えた。

「流れ弾が何処に飛んで行こうが俺の知ったことか。標的は処理した。それで十分だ」
「宮路少佐殿はご交友関係に難有り、って?でもこっちはそれどころじゃないのよね」

 麗華は大仰な身振りで天を仰いだ。前を開けた外套から、薄衣に隠された肢体が悩ましげに揺れる。

「想海中、大騒ぎになるわ。赤家は下手人探しに血眼、いずれ紫衣団や洪氾団らの他の結社とも衝突することになるでしょうね。
 そうなったらまぁ、大変よ」
「そいつは気の毒だな」

 少しも気の毒でなさそうに言葉を継ぐ。

「それよりも、あんたにひとつ聞きたくなったのよ。ねえガナー、あんたどうしてあの時、四王飯店の女達を射線から外したのかしら。
 流れ弾が何処に飛んで何処に当たろうが気にはしないけれども、何処を外したのかは少し気にかかるわね。
 女達はただあそこに居合わせただけで無関係だと思ったから?それとも、只の女性優遇主義者なの?」
「単純なことだ。武装した連中を片付ける方が優先だ」

 麗華はふふ、と微笑んだ。

「優しいのね」

「あんたの方こそ、よく宮路に近づけたもんだな。奴はそうそう隙を見せるような手合いとも思えなかったが」
「単純なことよ」

瞳に媚びた光を灯し、小悪魔の様な笑みを浮かべる。

「女は、化けるの」

ガナーは無表情を崩さない。何処か遠くで、列車の汽笛が鳴り響いた。

「そうだ、丁度良かった。緋龍、煙草を持っていないか」
「仕事の後の一服って訳?どうぞご自由に」

 内懐から優雅な手つきで紙巻を取り出す。夜のカウンターならば端から端まで釘付けにされそうな仕種。
ガナーは心持ち照れ臭そうに視線を逸らせ、気恥ずかしそうな声を出した。

「・・・いや、俺は喫わないんだ。済まないがその、箱でもらえないかな」
「 あら、どうして?」
「実は人に土産を頼まれていてね。生憎自分で探している時間がなかった」

 大道寺麗華は虚を突かれたように瞬くと、大声で笑い出した。

「は・・・、あははははっ」
「笑うなよ」
「ふふ・・・あんた、変わってるわ。いいわよ、持って行きなさいな。お互い自由の無い者同士、助け合いねぇ」

 麗華がベンチから立ち上がると外套はするりと脱げた。緋色の生地に金糸の龍、男を誘うようなチャイナドレスを顕わにし、
ガナーに体躯を傾ける。紙巻煙草の箱入が、心臓の上に滑り込んだ。

「じゃあ、あんたにはわたしが」

野苺のような唇が動いた。

「思い出をあげるわ」

 そのまま二人は重なった。膝を寄せ腕を回し、街娼のように口付けを交わす。舌を交え、絡み合い――

「・・・!」

唐突にガナーは麗華を突き放した。

「何をしやがる!!」

口元を拭ったガナーの手に一片、紅の血が滲んだ。

「お返しよ、ガナー。あんたあの時、私の事は狙っていたでしょ」
ちろ、と舌で口端を舐める。

「気づいてやがったのか・・・」
「当たり前よ。はっ、馬鹿にするんじゃないさ!誰の差し金。返答次第によっちゃあ」

錐の目がガナーを刺し、指先が手刀に揃えられる。

「あんた、ここから出られないよ」
陰に引いた袖口から、錐刀(スティレット)が滑り出した。

「差し金もなにも、もしそんな命令が出ていれば、あんたは今頃生きちゃあいないぜ」
「大層な御自信だこと」
「照準線に気が付いたなら、それを外したこともわかるだろうが」
「だから、気に入らないのよ。好き勝手に弄ばれるのは好みじゃない」

「・・・言われたような気がしてな」
「何を」
「『自由になりたい』って、あんたの目にさ」


 『自由が欲しいか?大道寺麗華』


「馬鹿なこと言ってくれるわね!何様のつもり」
「長生きしたけりゃ、あまり目を開かないことだな」

「そっちはどうなのさ、ガナー。あんたの目は何を語ってくれるのかしらね」
「戦闘地域にいる時には戦闘の事以外は物を考えない」

照準眼鏡は心を持たない。

「そうでない時にはなるべく、目を閉じるようにしている」

「・・・そりゃまた結構。あんた普段は、よっぽど呑気で呆けたとこで生きているのね」
「そうかな」
「この街では、目を閉じてるのは、死んだ人間だけよ」

 一語一語を叩き付け、女豹のように睨み付けると、誰の力に頼ることもなく、一歩を踏みしめ歩み去る。

「緋龍、」
ガナーの呼びかけに振り返ることもない。

「外套を忘れているぞ」

 通り名よりも真っ赤に染まって、大道寺麗華は立ち止まった。

*                *             *

 数日後、上海の街でガナーと呼ばれていた男は別の名と別の服装で別の場所に立っていた。

「配属以来の貴様の『特殊任務』については了承している。聞かず問わず、思わず悟らずが是正だったな」

日本陸軍中国大陸派遣軍、独立混成第一旅団、独立戦車第一大隊、その司令部、大隊長執務室。

「だがな、了承しているとはいえ俺個人がそれを容認している訳ではない」

陸軍機甲兵種軍曹の制服に身を固めた男は、黙して語らない。

「貴様も上級指揮官になれば判るだろうな、自分の指揮下に在る筈の部下が同時に他の部署の指揮系統にも属していて
 俺の預かり知らぬ任務に就いとるなんぞ言語道断だ」

 大隊長、東武大佐はまなじりを上げて一下士官を睨んだ。その視線にも鉄面皮が崩れることはない。

「土居中佐と言う男が何を考えているか知らんが・・・もし、私情を以て軍制を恣にするようなことがあれば
 俺は断じてそれに異を唱える。例え配下に寝首を掻きそうな手合いを抱えていてもな。そうなった場合、貴様はどちらに就くのかな」

「自分には、量りかねます」
感情を交えない、機械のような声。

「しかしながら、自分の身柄はあくまで旅団、引いては本大隊に属するものであり、その扱いは全て大隊長閣下の一任に帰するものと
 認識しております」

「立派な心がけだがな、特務の息のかかった始末屋風情を信用しろと言う方が土台無理な話だ」
「信が置けぬということで在れば如何様にも処断を戴く覚悟は出来ております」

中天に坐す日に雲が陰り、ひとときの間、部屋は影に落ちた。

「奉天軍閥のな、曹経国が安徽派と組んで謀反を企てるという噂があったが」
「存じておりません」
「公にはなっとらん。その前に曹が病死して立ち消えた。あのとき貴様の所属中隊が近辺にいたな」
「通常配置のままと記憶しております」
「確か心不全で死んだと聞いたが。人間、脳味噌を吹き飛ばされても心臓は止まるものだな」
「仰る通りであります」
「あれは、貴様の仕業か?」


「返答できません」


「見ざる聞かざる言わざるか。まあ、それもよい。貴様の任務なんぞ墓場の下まで持って行け。だがな、
 俺の指揮下に在る時には、猿よりはマシに働け。以上、退がってよし」
「はっ」

 男は敬礼して背を向け、ドアノブに手を伸ばした。

「伊勢崎」
「なにか」
「任務御苦労だったな。ともかく、無事でなによりだ」
「お気遣い、ありがとうございます」

*                *             *

「よう、帰ってたのかい。他の連中はとっくに戻ってきてたぞ」
「戦技研究といっても向こうは市街地、こっちは野戦が専門ですからあんまりやることもないもので」
「その割にはお前一人、随分と遅いじゃねえのよ」
「はぁ、僕だけ射的競技会に助っ人頼まれたんですよ」
「やれやれ、シャンリク(上海特別陸戦隊)も人手不足かね。いくらお前さんが砲手で一番の腕ったって、鉄砲の方は別だろう」
「英語で言えばどっちもGUNNERだから同じだとかで」
「海軍さんの理屈はわからねえなぁ」
「そうそう久喜さん、お土産もってきましたよ。吸いさしで悪いんですが英国製の紙巻煙草です」
「おっ、恩に着るぜ。銘柄なんぞどうでもいいんだけどよ・・・お!おいおい伊勢崎よぅ」
「なんですか」
「この煙草女の香りがするじゃねえか。さては手前ェ、上海美人と宜しくやってきたのかい」
「そんなことないですよ。遊びに行ってきた訳じゃないんですから」
「さてさて、どうかねえ。と、そういえばお前の中隊、演習に出掛けて一日帰ってこないぜ」
「あれ、そうなんですか」
「聞いてねえのかよ。まったく、気楽な奴だな」
「よく言われます」
「どうすんよの、今日」
「う〜ん、とりあえず・・・」

「昼寝でもしてきます」

 伊勢崎惣平軍曹はただの兵隊にもどりました。

<了>


 

Special Thanks To Mr.Club 30−06 and THE SCARLET DRAGON

 

 

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