九五式軽戦車(ハ号)北満型


九五式軽戦車は旧日本軍が使用した戦闘車輌です。初の実戦投入は1939年のノモンハン事件、太平洋戦争の終結まで運用は続きました。

変わったところでは友好国であったタイ王国に輸出され、現在でも当地に現存する車輌があるそうです

 

キットは言わずと知れたファインモールドのもの。九五式はFM社の旧軍戦車第1号モデルで、北満型は一部パーツを追加したものです。

旧軍の戦車はどれもそうなんですが九五式も功罪いろいろあって話すと長くなりそう、

しかしプラモ自体は積んであるのを消化しようというつまんない動機で作ったんで書くことがない(爆)

 

アオリで撮るとそれなりに強く見えます・・・よね?(弱気)

当初三色迷彩があんまりうまく行かず(毎度旧軍戦車作ると色合いが一定にならん・・・)

しばらく放置してたんですが黄線引いたらまあそれらしく見えます・・・よね??(さらに弱気)

 

上面から見ると車体中央部、半円形の張り出しがわかるかと思います。一時試作車輌にはなかったもので、その時期言わば素の状態で見ると

この戦車がフランス製ルノー軽戦車の流れを汲む設計なんだろうと思わされます。

イギリス人は九五式をビッカース6t戦車の系列だって言ってんですけどね(笑)

砲塔右後方、アサッテの方向に突き出している機関銃はアサッテの方向の敵を打つ!ためにある・・・

 

んではなくて使用時にはこんな感じで前方に指向させます。九五式の砲塔は一人用なんで車長はすげー大変。

こうしてみると九二式重装甲車っぽく見えるな。デザイン、設計思想っていうのは受け継がれるものなのです。

 

九五式軽戦車の転輪は大経転輪2個をひとつのボギーで懸架し、二組を弦巻発条で纏めたものでした。

装置自体は非常に優れた設計だったのですが実際使用してみると、偶然にも北部満州にひろく存在するコーリャン畑の畝とピッチが合い、

乗り上がった状態で走破性に難を生じ、その解消のため小径転輪を追加したタイプを通称「北満型」と呼んでいます。

もっともあまり効果の程は無かったようなので外して運用する部隊の方が多かったようですね。

第一転輪が浮かび上がって見えますが気にするな。

 

後部のラインはちょっとお気に入り。

旧軍の戦車大系は輸入された外国製の戦車から始まり、後国産初の制式戦車として八九式中戦車が開発されています。

八九式とフランス製ルノーNC軽戦車の二つは日中戦争初期の主力車輌だったのですが、軍全体の機械化が進んだ結果これら第一次大戦の衣鉢を継いだ車輌は

速度が遅く、一般的な輸送トラックと円滑な連携行動が取れない事態に陥りました。

後述しますが九五式には「機動戦車」としての能力が求められたため、速度や信頼性などエンジン周りの能力は優れていたそうです。

黄線がちゃんとつながってないように見えますが気にするな。

 

 

 

主砲は九四式三十七粍戦車砲。開発当時1935年という時代を考えれば十分な火砲なのですが、やはり第二次世界大戦を戦い抜くには如何にも非力な火砲ではあります。

後期生産型では薬室を延長し威力の増大を計った九八式戦車砲に変更されているらしいんですが結局は「焼け石に水」でしか無かった。

出現当時は十分、しかし以降の軍事的推移に耐え得るには甚だ不足というのがまあ、旧軍戦車に共通して言える問題点です。

実際のところ後継車輌の開発は直ちに着手され、九八式軽戦車として結実しています。しかしながら既にして戦時体制にあった生産ラインを変更することが出来ず

結局は非力な九五式軽戦車は北満中支から南方島嶼のあらゆる戦場に投入され、多くが撃破されました。

仮制式の時点から既に指摘されていた装甲厚、防御力の不足は実戦ではまさに致命的であり、

日本陸軍戦車部隊の数少ない勝利であるマレー半島に於いても九五式を使用した偵察部隊は酷く打撃を受け、それでも根本的な改善は成されず――

 

旧軍戦車の旧弊を示す象徴としてはしばしば小さくて非力な九七式中戦車が挙げられます。

その傍らにあるもっと小さくてもっと非力な車輌は余人に知られることもまた少ないのです。

 

このアングルが一番好きですね〜。

写真はピンぼけに見えますが気にするな。

 

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