「人造天国」開設約四周年記念講演

「 芸 術 と は 何 か 」

講師:あぼがど(管理人)

 


 皆様本日はようこそおいで下さいました。Webサイト「人造天国」が開設約四周年を迎える今年今月、この場を用いて不承管理人である私が、

ひとことご挨拶させていただきます。

 思い起こせば当サイトを開設した1999年9月といえば世界中の人々が誰しも「畜生ノストラダムスのインチキ野郎め」とあきらめムードに

覆われていた時代でした。「北斗の拳」も「MADMAX2」も起こらないまま、なし崩しに21世紀に鬱入していくのかと思うと天を仰いで嘆きたくなる

そんな時代。そういう時に「羊頭狗肉」をコンセプトとし、「ヒトラーとゲーリングのフィギュア」をトップ画像に据えて始めたこのサイト。思い出すのも

イヤになります。

 が、しかしご訪問いただいた皆様方の並々ならぬご愛顧により今日のこの日を迎えられたこと、大変喜ばしく又気恥ずかしくもあり――

長いようで長い、短いようで短い四年間でした。今後とも宜しくお願いいたします。

 

 さて本題ですが、季節はまさに秋も盛り。秋と言えば「スポーツの秋」、「食欲の秋」、「読書の秋」などとよく言われます。それぞれの事柄について

なにがしか語りたいところではありますが、今日は敢えて「芸術の秋」ということで芸術について。「芸術」とはではなんでありましょうか?

ひとくちに「芸術とは何か」と問うても答えを返すことは容易ではありません。そこでいささか近視的かとは存じますが彫刻家ロダンを例にとり、

このサイトの主要なコンテンツでもある「模型」と関連させる形で「芸術とは何か」に対する何らかの答えを導きたいと思います。

ロダンという人物についてここでわざわざ多くを語る必要はありますまい。「考える人」「カレーの市民」などを代表作とする近代彫刻の大家、

東京上野の国立西洋近代美術館でも彼の作品は野外展示され、行き交う人々に芸術の楽しみを与えてくれます。

このロダンを、模型的に捉えてみようと思います。

 さてその際に、例えば考える人を縮尺複製して再生産することが「芸術」と呼べるでしょうか、いや呼べますまい。なるほどそれは「型を模す」

という意味では明らかに「模型」的解釈であります。昨今の素晴らしい造形家たちの手によれば、たちまちのうちにロダンの彫刻を複製し、

チョコレートやキャンディーのおまけとして流通販売することも可能でしょう。しかしそこには「芸術」のもつ神秘性が欠けております。

ご注意戴きたいのは私が只今「神秘性が欠けている」と申しましたのは、けっしてそれらが大量生産品であるからといった芸術の価値を希少性

に求める故のことではないということです。アンディ・ウォーホルはキャンベル・スープ缶や「大量生産」から神秘性を導き出し、芸術へと昇華させ

ました。いわば芸術というのは量子論にも似て、観測者に発見されて始めて価値を持つものなのです。ですからこそ、あらかじめ芸術性をもつ

「ロダンの彫刻」を模型化したとしても、却ってその神秘性は失われることとなるでしょう。

 詩人、高村光太郎はいくつかの詩にロダンを詠っております。成る程それらは活字ですが、そこにはロダンのもつ人間性、ヒュウマニティが

確かに存在するのです。大事なことは模型を作った結果、そこにロダンの持つものと同様な芸術性が付与されるということなのです。

 

さて、これがその模型ですが

これこそはまさにロダン!

思わず同情して涙ぐみたくなる短足、不用意に巨大な頭部、いまひとつ役に立ちそうもない両の翼――

この模型の全身から発せられる神秘性、芸術性こそまさに北九州博多市を恐怖のどん底に陥れ

阿蘇山の噴火の炎へと姿を消した空の大怪獣ロダン!

 

「これはロダンじゃねぇ、ラドンだ」

と仰りたいのは百も承知、よぉくわかっておりますが

 

だって箱に書いてあるし。

 

ほらね。

 

 この際芸術家ロダンの正しいつづりが「Rodin」であると言うことはネタ優先で置いて於いて、

 それでは皆様、今後とも「へっぽこな文章とへっぽこな模型」に勤しむ当Webサイト「人造天国」を宜しく、何卒宜しくお願い申し上げます。

 

 

「造」の部屋に戻る

 

 

 

inserted by FC2 system