「九七式中戦車(新砲塔チハ)」

 


さてファインモールド待望の新製品を速攻買ってそのまま積んでいた九七式中戦車です。

この戦車昔はよく「九七式中戦車改」「九七改」などと呼ばれていましたが、それはどうやら戦後便宜的に付けられた名称で、

戦時中は特に類別されることなくただ「九七式中戦車」、

もしくは「新砲塔チハ車」「四十七粍砲搭載九七式中戦車」とか適当に呼ばれてたようです。

中には「一式中戦車」と呼んでた例もあるそうですがこれは誤認で(後述)

この稿では本車を「新砲塔」、旧型を「九七式」で統一することにします

 

さてはじまりはじまり。

 

まずは普通に車体から。九七式はむか〜しからタミヤのMMシリーズにありますがこれが鬼のように優れた出来映えで、

四半世紀後のファインモールドのキットが如何に吸い付くほどにパーツの合いが良くとも

出来上がるブツにさほどの違いは見られません。

お値段考えるとひと様にはタミヤを勧めても良いような。

FM社の製品としてはこれまで省略されていた最終変速機カバー部分のリベットがしっかりモールドされていて

メーカーとしての進捗が見られるのが◎です。

その一方でBパーツ(三式中戦車のランナーをそのまま使ってる)にはそろそろヒケが見受けられ、若干パテを使いました。

場所は転輪アームの基部でってここ完成すると全然見えない箇所なんだけどな!

 

個人的に九七式のアイデンティティが詰まってると思う場所その2「車体前面」(その1は短砲身57粍砲)

垂直・水平面はひとつもなく、ゆるやかな傾斜面を構成しています。

この部分ボルトも「尖頭鋲」で全ては防御力向上のため、いわゆる「被弾経始」がちゃんと考えられていたことを示してます。

九七式中戦車は細部まで非常に行き届いた「職人」的な設計が成されているのですが

登場時期はともかく太平洋戦争後期の戦場では、あまりに貧弱な構造でした。

「至近距離で37ミリ対戦車砲に抗堪する」設計段階での要求は確かに満たしていたのですが

それは日本軍の使用する九四式速射砲の性能に抗堪するだけだったのです・・・

 

こと「新砲塔」に関しては、タミヤの「九七式改」の砲塔は小さすぎでFM社の砲塔の方がバランスが良いとのこと。

その主砲部分は抜きの関係で省略されている部分が多いのでいろいろ見せ所です。

主砲駐退機カバー上面のリベットはFM社特有の「おまけリベット」で再現、

砲耳(?)だったか防盾側面のカバーはコトブキヤの「丸モールド」を使用しました。

そして防盾上部取り付け部分のリベットはウェーブの「Rリベット丸」なのですが

うわこのベージュ成型のRリベットって何年ものだろうな・・・と遠い目になってしまふ。嗚呼。

 

かくて完成した「一式四十七粍戦車砲」、新砲塔のアイデンティティなのでしっかり作りましょー。

搭載砲が「一式」だったんで「一式中戦車」と間違えられたというのがどうも本当のようで、

昔の本に「一式中戦車(チヘ車)はフィリピンで実戦投入されているが写真は一枚も残っておらず・・・」なんて書いてあるのはつまりソレだと。

 

そして砲塔でもう一箇所、展望塔の省略されてる視察スリットを掘る掘る。

どうせ中身は作らないんだけど位置決めのために透明パーツの防弾ガラスを貼り、

プラ板重ねて作ったスペーサーにエッチングのこぎりをとりつけカリカリ・・・

スミ入れしてもよく解らないけどこんな感じです。

都合五箇所、大きさはちゃんと揃えましょう。揃えた方がいいぞ。揃っている物だろう。普通は。

まぁ・・・、どうせよく見えないだろうし・・・(←敗北主義者の思想)

 

そして例しに載せてみる。

何度か書きましたけど戦車プラモ作ってるときってこの時期が一番楽しい。あまり楽しすぎて

人には見せられない

ほどにブンドドド感溢れる・・・

 

そして塗装開始。

今回はGSIクレオス社謹製「日本陸軍戦車前期迷彩色セット」を使用。陸軍カーキと茶色緑色の三色セットで

「土地色は後期迷彩色セットを別途購入すべし」と書いてあったんで迷わず手持ちのレッドブラウン使いました。

どーも変ダナーと思っていても、やはり黄線入れるとそれっぽく見えてくるもので、不思議な感じです。

そしてここは完全に失敗したマフラー部分の金網。大変目の細かい綺麗なエッチングパーツで再現されてるんですが

全部塗りつぶしてしまったOTL

プライマーとか、課題は多いなぁ><

 

尾灯はクリアーパーツで再現されています。前照灯はともかく後部までクリアーなのは珍しいかもだ。

珍しいと言えばもっと珍しいクリアーパーツがあって・・・(後述)

 

兎にも角にも完成です、新砲塔たん∩( ・ω・)∩バンジャーイ

新砲塔チハ車は第二次世界大戦で旧日本陸軍が使用した戦車です。

1942年のフィリピン、バターン半島攻略戦に初陣を飾り、終戦まで戦車部隊の中核を担いました。

一部は戦後中国大陸での国共内戦でも用いられ、現在でも人民解放軍の博物館に展示されています。

 

歩兵支援用の五十七粍短カノンだった九七式中戦車の主砲を、より貫徹力の高い戦車砲に換装しようとの考えは昭和14年3月からあったのですが

実際その動きが本格化したのは同年5月のノモンハン事件を受けて、でしょう。

この際、長砲身五十七粍砲案もあったそうなのですが、結局は歩兵の対戦車砲と口径を同じくする四十七粍砲案に決まりました。

 

陸軍が仮想敵と目していたのは矢張りソ連軍であり、完成した新砲塔の外形はBT快速戦車に酷似しています。

しかし昭和14年から始められた新型砲塔の完成は昭和17年まで実に3年もの期日をかけることとなり

その時には既に戦う相手は違っていました。

 

ああ、ところで牽引ワイヤー支持具が片っぽしか見えない方、

視力が高いですね、大切にしてください。

 

太平洋戦争初頭は確かに各地で陸軍の快進撃が続いたのですが、

英軍に戦車の無かったマレー半島と異なりフィリピンでは米軍のM3軽戦車が投入されました。

これは当時の日本軍の戦車砲では貫徹不可能な防御力を持ち、言わば「M3ショック」とでもいうべき恐慌を(ある程度には)引き起こしました。

同時期にロシア戦線ではT−34ショックなのでなんともスケールの小さい話ではある。

が、ともかくそのフィリピン戦線の末期、バターン半島とコレヒドール島攻略戦に新砲塔チハは投入され、活躍を示しました。

当時の雑誌に曰く「M3戦車恐るるに足らず」それは確かにその通り。

しかし大戦後期、米軍の反攻作戦が始まったときには主力戦車はM4シャーマン中戦車に更新され

然るに日本軍の主力戦車は九七式中戦車のままでした。

 

主砲基部を接写してみる。

こうやって自分のやった所が目に見えて判るのは良いなーわはー

 

でも視察スリットはよくわかんにゃい(´・ω・`)

おまけにその、なんだ・・・

筆目の粗いのがハッキリわかるんで

なんだか靖国神社のレストア車輌みたいですね

(゚∀゚)ア /l/l/l/lハハハハ/ヽ/ヽ/ヽ/ヽ ノ \ ノ \ノ \ ノ \

 

 

あんまり変わってないようで結構変わってる九七式(右手前)と新砲塔(左奥)

うん、だいたいあってる(´・ω・`)

 

そして同時代のライバルとかを並べてみるのが毎度のパターンで

ためしに並べてみた。

 

バズーカ余裕でした^^v

 

むしろこの、一升瓶より小さい主砲弾を見せた方が、

戦争末期の新砲塔チハ車が置かれていた状況を端的に示しているかも知れない。

大戦後期に米軍のM4シャーマンは対戦車能力にすぐれた76.2ミリ砲を装備するようになっていったのですが欧州のみで太平洋には配備されず、

従来通り75ミリ砲のまましかも日本軍戦車相手にするには

「徹甲弾では打ち抜けてしまうが榴弾を使えば十分に破壊できる」とか言われていたらしいぞ。

 

ああ、ああ、チハたん(´д⊂)

 

九七式中戦車について叙情的に書くのは結構辛い物があるのですが、

「なんだかよくわからんがたいして役に立たなかったらしい」だけでは片付かない色々な物がそこにはあります。

そしてそれは今の自分が反戦とか平和とかを考えるのにずいぶん役に立ちましたと、それは最後に書いておきたい。

 

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